岩城滉一氏の「LIVE AND LET DIE」が発売された時期、、、

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岩城滉一氏は1975年から1990年までの間に、シングル15枚、アルバム10枚発表している歌手でもありますが、大きな歌謡ヒット曲はありませんでした。

が、ヒット曲がなくて、これだけ長年に渡りシングル、アルバムが発表できたのは、逆に凄いな〜と感心してしまいます。

岩城滉一氏が所属していたバイクチームのクールスは、バンドになってから、こちらも大きな歌謡ヒットはなかったとはいえ、当時の非行少年・少女達の間でそれなりの需要がありました。

また、ファンでなくてもバンドのクールスはよく知られていますし、デビュー当時のメインシンガー、舘ひろし氏はソロになってから「泣かないで」「朝まで踊ろう」の歌謡ヒットを出し、紅白歌合戦にも出場しています。

岩城滉一氏もソロレコード発売が途絶えた後、元ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童氏、元ツイストの世良公則氏とのトリオで2004年アコースティックギタートリオ「GENTLE3」を結成。

このトリオでツアーを敢行、ライブアルバムも発表しているのですが、各々の熱烈なファン以外はこちらのトリオも、あまり知られてないようです。


そんな宇崎竜童氏と岩城滉一氏は、19777年の岩城滉一氏の4枚目のシングル「恋酔狂」の作曲からの関わりで、1978年発表の2枚のアルバムも宇崎竜童氏がプロデュースと、かなり古くからのお付き合い。

更にはアルバム「LIVE AND RET DIE」は、ゲストギタリストにクリエイションの竹田和夫氏、ドラムにチト河内氏を迎えレコーディングされています。

竹田和夫氏は1977年の音楽雑誌「ミュージックライフ」の読者人気投票、国内ギタリスト部門の1位で、1978年は歌謡人気で大ブレイクしたチャー=竹中尚人氏に次いでの2位。

1977年のクリエイションはサンタナ、フリードウッドマックと豪州ツアーを行っており(日本のマスメディアは無視)、当時コアなロックファン、ギターキッズに竹田和夫氏はカリスマギタリストでした。

ちなみに同1978年年末恒例の、内田裕也氏の「ニューイヤーロックフェスティバル」にも、宇崎竜童氏のダウン・タウン・ブギウギ・バンドも、竹田和夫氏のクリエイションも出演しています。

一方、チト河内氏はグループサウンズ時代は「ザ・ハプニングス・フォー」、その後は吉田拓郎氏の「新六文銭」に加入。そして石間秀機氏、篠原信彦氏、トメ北川氏とトランザムを結成しています。

トランザムは、TVドラマ「俺たちの勲章」「俺たちの旅」「俺たちの朝」等の音楽を担当。

1975年、主催者発表5万人を集めた「吉田拓郎かぐや姫 コンサート インつま恋」のサポートを行った、チト河内氏も当時の人気ドラマーでした。


そして、プロデュースの宇崎竜童氏も当時はダウン・タウン・ブギウギ・バンドのリーダー・シンガー・ギタリストとして時代の寵児だったのは、2023年現在、60代の爺さん婆さんならご承知の筈。

1977年にも「サクセス/愛しのティナ」の歌謡ヒットを放ち、更には山口百恵さんの一連のヒット曲も手がけていた絶好調の時期でした。

という具合に、かなりの豪華メンバーによるレコーディングだった岩城滉一氏のアルバム「LIVE AND LED DIE」でしたがヒットには至りませんでした。

また、よっぽどの岩城滉一氏ファンでない限り、このアルバムは知られてないようです。

というのも、岩城滉一氏は1977年に自らの不祥事で、このレコーディング、レコード発売の1978年は、芸能人・俳優として仕事が全くなかった時期。宣伝も殆どされませんでした。

一般には、1979年の松田優作氏との共演映画「俺たちに墓はない」出演で、岩城滉一氏は芸能界復帰とされてますが、それ以前にこちらのアルバムは発売されたので、「歌手:岩城滉一」は活動していました。

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岩城滉一氏はそんな不祥事の翌1978年、まず宇崎竜童氏プロデュースで、その名も!「TURNING POINT」というアルバムを発表しています。

それ以前の岩城滉一氏のレコードと違い、明確にロック寄りのサウンドを提示し、そしてその延長線上で、豪華ゲストを招いて発表された次のロックアルバムが「LIVE AND LET DIE」。

正に!、映画「007 死ぬのは奴らだ」と同じタイトルの「LIVE AND LET DIE」です。

自らの不祥事とはいえ芸能人・俳優として全く仕事のなかった1978年に、岩城滉一氏はこ〜んな!挑発的なタイトルのアルバムを発表してました(笑。今だったらネット上で不謹慎と炎上かな?)。

だから、もしこの2枚のアルバムが売れていたら、岩城滉一氏はロック寄りのシンガーとして再登場していたかもしれないですね〜。

ちなみにそんな1977~1978年、舘ひろし氏もクールスを諸般の事情でやめており、この頃は後に大ブレイクしたビーイングを設立した長戸大幸氏が手がけた、舘ひろしとセクシーダイナマイツとして活動。

『作詞:舘ひろし、作曲:長戸大幸』の「朝まで踊ろう」は、この舘ひろしとセクシーダイナマイツ名義の頃に発表していたのですが、この時は売れませんでした(ソロ名義の再発で売れた)。


そして岩城滉一氏、舘ひろし氏の古巣であるクールスも、クールス・ロカビリィ・クラブとバンド名を変更。

1978年、ブレイク前の山下達郎氏をプロデュースに、メンバーの村山一海氏作詞、ジェームス藤木氏作曲のシングル「センチメンタル・ニューヨーク」を発表しますが、こちらもヒットには至りませんでした。

とは言え、この当時のクールスのメンバー、なかなか強力な方々と音楽をやっていたのは、ちょいと音楽通のおっさん、おばちゃん、爺さん婆さんなら、誰でもわかると思います。

まぁ〜クールスも2023年現在、皆さん古希を越え爺様です。

アウトロー、強面キャラで売り続けて来ましたが、なかなか皆さんしっかりと「大人の仕事」を「大人の対応」で芸能界、音楽業界を生き残っているのは凄いなーと思います。

最後になりますが、そんな1978年と言えば、矢沢永吉氏のシングル「時間よ止まれ」が大ヒットし、アルバム「ゴールドラッシュ」も売れ、矢沢永吉氏が芸能人長者番付歌手部門の1位に輝いた年でした。