老いも若くも、古のフュージョンファンにはお馴染みのバンド『スタッフ』。
『スタッフ』は、1977年にヴァン・マッコイとチャーリー・チップスと『スタッフ』の共同プロデュースによる、アルバム「モア・スタッフ」でレコードデビューしています。
で、この共同プロデュースに名を連ねるヴァン・マッコイとは、こちらも古のディスコファンにはお馴染み、1975年に全米ビルボードチャート1位を記録したたあの!「ハッスル」を作った人です。
そしてその「ハッスル」収録の『ソウル・シティー・シンフォニー』名義のアルバム「ディスコ・ベイビー」のレコーディングに、後に『スタッフ』を名乗るメンバーも参加してます。
ドラマーのスティーヴ・ガッド、ベーシストのゴードン・エドワーズ、ギタリストのエリック・ゲイル、キーボードのリチャード・ティーが、他スタジオミュージシャンと共に参加してます。
な〜んて事を考え、ヴァン・マッコイの『ソウル・シティー・シンフォニー』名義のアルバム「ディスコ・ベイビー」を全曲聴いてみると、なかなか味わい深いです。
で、良くも悪くもアルバム「ディスコ・ベイビー」は、日本の歌謡芸能的なアルバムで、ヴァン・マッコイのオリジナル曲はシングルカットされた「ハッスル」他3曲だけで、他の多くはカヴァー曲。
A面1曲目のアルバムタイトル曲「ディスコ・ベイビー」は、ヴァン・マッコイもシングル発表し、日本でもディスコヒットしましたが、作ったのはヒューゴ&ルイージ。
ヒューゴ&ルイージとは、当時すでに50歳を超えていたルイージ・クレアトールと、50歳に近かったヒューゴ・ペレッティの白人レコード・プロデューサーチームの事です。
まぁ〜ザ・ビートルズのレノン・マッカートニーみたいなものと思えば良いわけですが、このヒューゴ&ルイージが凄くて、ペリー・コモ、 エルヴィス・プレスリー、サム・クック などを手掛けてました↓。
又、トーケンズの「ライオンは寝ている」、アイズレー・ブラザーズの「シャウト」、ペギー・マーチの「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」なんてとこは、ちょっとした音楽ファンなら誰でも知ってますね。
何よりヒューゴ&ルイージの当時の年齢で、若者に流行り出したディスコサウンドの「ディスコ・ベイビー」を作れる才能と若さとセンスには、心より敬服いたします。
そしてA面2曲目は、ニューファンクブームだった当時のアメリカで(日本ではそんなブームは起きてない。踊り場の中の狭い人気)、人気グループだったオハイオ・プレイヤーズの「ファイアー」。
「ファイアー」は1974年に全米ビルボードチャートで1位を獲得した曲で、本当にこのアルバムは日本の歌謡芸能的なアルバムで、オリジナル曲以外は当時のディスコヒットのカヴァー集です。
そしてA面3曲目は、ヴァン・マッコイのオリジナルナンバーで、シングルカットされ見事!全米ビルボードチャートで1位を獲得、世界的な大ヒットになった「ハッスル」。
日本でもハッスルというステップが流行り、踊り場人気になった曲で、このいつ聴いても古さを感じさせない主旋律でピッコロを奏でているフィリップ・L・ボナーが、ま〜た凄い人なんです。
1917年生まれのフィリップ・ボナーは当時、もう還暦を迎えようってな年齢のベテランジャズマン。
クラリネット、フルート、オーボエ、サックス、ホルンと吹奏楽器奏者のフィリップ・ボナーは、ベニー・グッドマンやマイルス・デイヴィス、ギル・エヴァンス等とプレイしてた方なんです。
「ハッスル」、アルバム「ディスコベイビー」恐るべしですね〜。
まぁ〜呼ばれた皆さんは、普通に仕事だから受けたのでしょうが、やはり良いサウンドを作るには秀逸なプレイヤーが絶対に必要になり、その選別もプロデューサーのセンスになります。
そしてA面4曲目は、ディスコ・テクス&セックス・オーレッツの「ゲット・ダンシング」で、この曲も踊り場の狭い世界でですが、かなり女の子に人気の高かった曲と記憶してます。
で、A面ラスト5曲目はキャロル・ダグラスの邦題「恋の診断書」。この曲はチャチャだったかな〜?キャロル・ダグラスの可愛い声とサウンドが好まれ、日本の踊り場でもかなり流行りました。
そしてB面1曲目の「ターン・ディス・マザー・アウト」は、このアルバム2曲目のヴァン・マッコイのオリジナル曲ですし、B面のトップに持ってきてるので自信作だったと思われます。
が、ディスコヒットした形跡もありませんし、好きな方には申し訳ないですが、私的にはちょ〜っとイマイチな曲。
で、B面2曲目は、当時の踊り場でも最新のニューファンク好きに好まれた、ザ・テンプテーションズの「シェイキー・グラウンド」。
そしてB面3曲目の「スパニッシュ・ブギー」が、このアルバム3曲目のヴァン・マッコイのオリジナル曲ですが、何やらザ・テンプテーションズの大ヒット曲「パパ・ウォズ・ローリング・ストーン」のよう。
ザ・テンプテーションズもこの頃は、1960年代の「マイガール」等の大ヒット時のデヴィッド・ラフィン、エディ・ケンドリックス、ポール・ウィリアムズが抜けており、サウンドも激変。
エディ・ケンドリックスは「パパ・ウォズ・ローリング・ストーン」が全米No.1になった頃、ソロで同じようなニューファンク系の「ブギー・ダウン」のディスコヒットを飛ばしました。
そんな時代背景もあり、私的に「スパニッシュ・ブギー」は、「パパ・ウォズ・ローリング・ストーン」「ブギー・ダウン」、そして「シェイキー・グラウンド」と同じ匂いを感じます。
そしてB面4曲目は美人サックス奏者のキャンディ・ダルファーのカヴァーによって、リアルタイムを知らない世代のジャズファンク、フュージョンファンにも浸透してる「ピック・アップ・ザ・ピーセズ」。
そしてB面5曲目、アルバム全10曲のラストはシングル「ハッスル」のB面収録曲「カム・アンド・ゲット・イット」。この曲は、ザ・スタイリスティックスヴァージョンも踊り場で人気がありました。
ヴァン・マッコイはこの後、ザ・スタイリスティックのプロデュースもやっており、日本では一番彼らのレコードの中では売れた「愛がすべて」が、その代表曲ですね。
最後になりますが、『ソウル・シティ・シンフォニー』のこの壮大なオーケストラを指揮していたジーン・オルロフは1921年生まれの白人音楽家で、こちらも当時は50歳を超えていたベテランでした。
ジーン・オルロフは元々はクラシック系の方のようで、ビージーズ、アレサ・フランクリン、フランク・シナトラ、バーブラ・ストライサンド等と仕事をしていた名うての音楽家。
というわけで、ヴァン・マッコイは1979年に39歳の若さで心臓発作で他界してしまいましたが、彼の1975年のアルバム「ディスコ・ベイビー」。なかなか面白いアルバムだと昔も今も思っております。