荏原の同級生、元読売ジャイアンツの原田治明氏と萩原康弘氏

 


2022年、夏の甲子園大会を目指した東京大会で決勝で二松学舎に敗れ、46年ぶりの出場を逃した日体大荏原

日体大荏原日体荏原、荏原と校名が変わっていますが、夏はその46年前の1976年が唯一の甲子園出場で、この大会は西東京代表が日体荏原、東東京代表が桜美林で共に初出場でした。

日体荏原は一回戦で北陸の星稜に0対1で敗退しましたが、何と桜美林はその星稜を準決勝で1対4でやぶり、決勝では大阪のPL学園を延長14回4対3でサヨナラ勝ち。初出場初優勝の快挙を成し遂げています。

更に遡って春の選抜には荏原時代の1965年の初出場と、日体荏原時代の1969年の二度出場以来、甲子園出場はありません(共に初戦戦敗退)。

春夏通算初出場となった1965年の荏原時代のレギュラーに、後に読売ジャイアンツに共に入団する原田治明氏と萩原康弘氏がいました。 

ちなみに荏原が2対4で初戦敗退(2回戦から登場)した大阪のPL学園には、後に大洋ホエールズに入団した福嶋久晃氏、東京オリオンズに入団した得津高宏氏、ヤクルトに入団した長井繁夫氏、阪急ブレーブスに入団した加藤秀司氏がいた、なかなかのプロ予備軍。

ところがこのPL学園、次の準々決勝で香川の高松商に2対5で敗退しており、高松商のエースがこの後、早稲田大に進み大活躍後、1969年のドラフトで読売ジャイアンツに1位I指名される小坂敏彦氏でした。


更に面白いのが、この高松商を四国大会決勝でやぶって優勝した高知県高知商のエースだったのが、後に南海ホークス阪神タイガースのエースピッチャーになる江本孟紀氏。

本来なら四国ナンバーワン高校で高知商は選抜出場の筈でしたが、部員の不祥事により出場辞退というナインには痛恨の事件で、江本孟紀氏は後に法政大に進んでいます。

ちなみに1965年のこの選抜大会優勝は、後の大洋ホエールズの大エースになる200勝投手!平松政次率いる岡山県岡山東商

そして1965年は、読売ジャイアンツの不滅の!V9がスタートした年でもありました。

そんな東京の荏原の原田治明氏は卒業後に駒澤大学、萩原康弘氏は中央大学に進みましたが、原田治明氏は退部(怪我?)。大学を辞め社会人野球に方向展開してしまいます。

一方、中央大学でも活躍した萩原康弘氏は、1969年のドラフトで読売ジャイアンツに3位指名を受け入団。

この年のジャイアンツの1位指名が、前出の荏原が負けたPL学園に勝った高松商の小坂敏彦氏で、6位指名が後の不動のショートになる甲子園出場もない無名の高校生、愛媛県八幡浜工の河埜和正氏でした。

無名で地味だった河埜和正氏が、ショートのレギュラーに!


その読売ジャイアンツは無敵のV9爆進中!V6の年が彼らの1年目でしたが、萩原康弘氏は見事に新人ながら42試合に出場。本塁打も1本放って優勝に貢献しています。

ドラフト1位の鳴物入り入団の早稲田大のエース!小坂敏彦氏は、V6ジャイアンツの最強投手陣『渡辺・城之内・倉田・堀内・高橋明・高橋一・山内)の中では出番も少なく1勝1敗。

同じく早稲田大のキャッチャー!2位指名入団の阿野鉱二氏は10試合出場で、こちらも本塁打1本を放っておりますが、高卒の河埜和正氏は二軍の育成生活で試合出場はありませんでした。

また、当時のジャイアンツの外野には柴田勲氏、高田繁氏、末次民夫氏がレギュラーに定着しており、この一角を新人外野手が崩すのは至難の技。

ベテランの森永勝也氏、国松彰氏が引退しましたが、1971年には西鉄ライオンズから二桁本塁打を打っていた実績ある広野功氏が移籍し、高卒新人の淡口憲治氏、更にはキャッチャーから外野にコンバートされた槌田誠氏、後に『史上最強の5番』と謳われる柳田俊郎氏、相羽欣厚氏と外野の控えでベンチ入りするのも一苦労の激戦区でした。

結局、萩原康弘氏はレギュラーを獲得する事なく、代打の切り札、外野の控えでV9後期を経験する事になります。

そして萩原康弘氏に遅れる事3年、荏原の同級生の原田治明氏が社会人野球から、ジャイアンツV8の1972年のドラフト会議で4位指名で入団。

ちなみに1969年の萩原康弘氏入団時の同い年のドラフト1位、小坂敏彦氏は1972年を最後に僅か3年で日拓フライヤーズにトレードされています。

小坂敏彦氏の読売ジャイアンツでの3年間の成績は、46試合登板で7勝7敗。もし小坂敏彦氏が最強投手陣のV9ジャイアンツではなく、投手力の弱い球団に入団していたら結果は変わっていたかもしれないですが、こればかりは神のみぞ知る領域。

社会人出身で即戦力と期待された原田治明氏も、1973年の1年目から49試合出場、1本塁打を放ち一軍でV9に貢献しますが、やはり萩原康弘氏同様その後は、壁の厚いジャイアンツの外野のレギュラーにはなれませんでした。

ちなみにこの年の日本シリーズの相手は、荏原の原田治明氏、萩原康弘氏、そして高松商の小坂敏彦氏と同い年で、チームのエースになっていた江本孟紀氏の南海ホークスでした(4勝1敗でジャイアンツの勝利)。


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一方で、高卒入団の河埜和正氏は不動のショートだった黒江透修氏が引退した1974年頃から頭角を表し、1975年には控えショートとして実績もあった上田武司氏とのポジション争いを制し、1976年からはショートのポジションを獲得しています。

皮肉なことに萩原康弘氏は、河埜和正氏がショートのレギュラーを獲得した1976年は、広島東洋カープにトレードに出された1年目。

ところが!当時の赤ヘル軍団広島東洋カープもまた山本浩二氏、水谷実雄氏、シェーンと外野のレギュラーは固まっており、1977年からはライトル、ギャレットの二人の新外国人外野手も加入した事もあり、移籍先でも代打の切り札、外野の控え選手として「強いカープ」時代を支えました。

そんなヤクルトを最後に1983年に引退した外野の控え、そして代打の切り札の萩原康弘氏は、読売ジャイアンツで4度、広島東洋カープで2度の計6度リーグ優勝、5度の日本一を経験しています。

萩原康弘氏はプロ通算217安打、20本塁打、打点114、打率.238。引退後は目白で喫茶店「HAGI」を経営し現在もお店は健在のようです。

方や原田治明氏は1980年には引退していますがジャイアンツ一筋で、V9最後の年に1度、長嶋茂雄監督時に2度の計3度のリーグ優勝を経験(日本一はV9最後の一度だけ)、プロ通算74安打、4本塁打、38打点、打率.230。

引退後もジャイアンツに残り打撃コーチを務め、その後も巨人寮の寮長、編成部を2007年まで担当し、野球界から去っています。