読売ジャイアンツV9最後の1973年、実は阪神タイガースは優勝目前だった!

今も伝説の読売ジャイアンツV9最後の年、終盤まで首位争いを繰り返した1973年の阪神タイガースは、1964年以来のリーグ制覇目前でした。

9月まで2位で追っかけていた阪神タイガースでしたが10月に入ってから、対ジャイアンツ戦含め江夏豊投手の4連勝含め6勝2敗1引き分けと絶好調で、ジャイアンツと入れ替わり首位にたちました。

阪神タイガースの残り試合は2。129試合目の中日ドラゴンズに引き分けでも優勝。

ここまで江夏豊投手は24勝12敗。上田二朗投手が22勝13敗。二人の20勝投手がいて残りは2試合で、試合間隔も空いていたので、誰もが読売ジャイアンツのV9は阻止されたと思ったものでした。 

この年は8勝と中日をカモにしていた上田二朗投手の、前回の登板は10月6日で相手は対中日戦。この8勝目の勝利投手から次の10月20日の中日戦まで休養はたっぷりです。

一方、江夏豊投手は10月15日に対広島戦で勝利投手になってますが、こちらも登板間隔に無理があったわけではないとはいえ対中日戦は3勝。中日戦はカモにしていた上田二朗投手が先発と誰もが考えるのが普通でしょう。

ところが!勝負をかけた対中日戦の先発は、予想を覆し江夏豊投手。


まぁ〜この投手起用法は諸説色々ありますが、上田二朗投手は対中日戦の3日前に柿本実ピッチングコーチから先発を言い渡され、自分もその気だったのに前日に変更になったとか。

ちなみにこの年の上田二朗投手がジャイアンツ戦が苦手だったわけではなく、最終試合前まで6勝3敗。一方の江夏豊投手は2勝3敗。金田正泰監督にはある種の嬉しい悲鳴の選択の難しさを感じます。

上田二朗投手はは、1シーズンを通して活躍したのはこの年が初めてで後半になってからジャイアンツ戦は1勝しかしていないので、中日戦はエースの江夏豊投手を胴上げ投手にする。もし負けても上田二朗投手はジャイアンツ戦の相性は悪くないから。

と、良い解釈もできるわけですが、江夏豊投手が中日戦前に球団事務所に呼ばれ、フロントから「優勝は金がかかるから2位でいい」と告げられたという話もあります。

実際に金田正泰監督は人望がなかったようで、鈴木皖武投手と権藤正利投手に別々に殴られる事件が起きており、若手だった掛布雅之氏は「凄いチームに入ったな〜」と思ったと証言しています。

金田正泰氏も当時の球団フロントも、この件に関してはコメントを残していないので、実際のところは当事者しかわからないですが、チームが一丸となって優勝を目指していたとは言い難かったと言えでしょう(藤田平氏も、優勝できなかった原因はフロントと監督にあったと回想しています)。

で、有名な話ですが中日戦を江夏豊投手で落とし、最終戦を上田二朗投手で惨敗した阪神タイガースは優勝を逸し、読売ジャイアンツはV9を達成したわけであります。

ちなみに、阪神タイガースが惜しかったのが残り4試合の10月11日の対ジャイアンツ戦。前日の田淵幸一氏の逆転満塁本塁打によって勝利した阪神は遂にゲーム差はないけれども首位!

この試合、阪神ジャイアンツ先発の堀内恒夫投手を滅多うちにし序盤で7対0とリード。しかも連投とはいえマウンドにはエースの江夏豊投手。阪神の勝利は決まったようなものでした。

が、しかし!、、、

ここから阪神は逆転され(江夏豊投手ノックアウト。3番手リリーフの上田二朗投手も連投)、阪神がもう一度ひっくり返し、最後はジャイアンツに追いつかれた10対10の引分試合。

この試合に勝っていたら、結果は違ってたかもしれないですね〜。

まぁ〜阪神タイガースは1968年から1970年まで3年連続2位で、1972年も2位の1973年の優勝直前の失墜ですから、当時の阪神ファンの失望と怒りたるや、リアルを知らない世代の方でも想像できるでしょう。

私的には『3番遠井・4番田淵・5番カークランド』の阪神タイガースの優勝を見たかったので、残念でしたね(カークランドはこの年を最後にアメリカに戻っています)。

ちなみに1968~1969年の2位の時、まだ1964年優勝時のメンバーだった吉田義男氏は現役でしたし、その後も同じく優勝時のメンバーだった外野の一角の『鉄仮面』藤井栄治氏、ファーストの遠井吾郎氏が残っており、別に阪神タイガースが優勝するのは珍しい現象ではなかったわけです。

勿論、優勝時の立役者の村山実氏もおりました(もう一人の立役者のバッキーも1968年にはいた)。

私的には1972年、2位だったのに選手兼任監督村山実氏が選手として現役引退と共に監督も解任になったのが、最悪の阪神球団の選択だったと思うわけで、1973年も村山実監督だったら違っていたでしょう。

村山実氏はそれほどカリスマ性があり、江夏豊投手も村山実氏を慕っており、他の選手たちも村山実氏が監督も解任になった事への怒りが、後任の金田正泰監督にモロに露になりチーム内はぐちゃぐちゃ。 

よくぞあのチーム状態で、129試合めの引き分けでも優勝に持ち込めたものだと逆に思ってしまいます。

そういうわけで、前年優勝を逃した1974年の阪神タイガースは7月の時点で二位の読売ジャイアンツに2ゲーム差をつけて首位。今年こそは優勝と思われていましたが、やっぱり夏場に失速。

結局、読売ジャイアンツのV10を成さなかったのは阪神ではなく中日ドラゴンズで、阪神は後半さらに後退し4位まで転落し、金田正泰監督は解任され吉田義男氏が新たに監督に就任しました。