1974年夏、高橋慶彦投手擁する城西、東東京大会初優勝

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1974年夏、それまで1校のみの東京代表枠が、この年から東西に分けられ東東京と西東京の2校が東京代表として夏の甲子園大会に出場できるようになりました。

その第一回の東東京代表校が、高橋慶彦投手(後の広島東洋カープ等)擁する城西高校で、シード校の城西は4回戦からの登場で東洋を7対0、5回戦の駒場を7対1でやぶり準々決勝進出。

準々決勝の相手は都立の進学校なれど、当時は野球も強かった都立戸山。結果は3対0で城西が勝ちましたが、都立戸山は善戦したと言えるでしょう。

ベスト4に進出した城西ですが、相手は前年に創部以来初めてベスト4進出するも敗れた日大一。昨年はその日大一が、決勝も早実をやぶり甲子園出場を決めております。

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また、日大一は夏に関しては当時は東京No.1の強さで、1968年から1971年まで4年連続で夏の甲子園に出場しており、1970~1971年は超高校級、保坂英二投手↑(後の日本ハムファイターズ)が大活躍しました。

1971年、3年時の保坂英二投手の東京大会は圧巻で、6試合計48回を投げ奪三振78の快投を演じ、準決勝では同年選抜優勝校の日大三を制し、決勝も二松学舎をやぶり甲子園出場を決めています。

そんな保坂英二投手卒業後の1973年も日大一は強く、春夏連続出場し、春の選抜はベスト8に進出していた強豪校。城西にとっては昨年の雪辱戦でしたが、日大一は最大の強敵でした。

城西の高橋慶彦投手、いきなり初回に日大一打線に4点を奪われるも、城西も負けじとその裏3点を返す初回から点の取り合いの打撃戦。

 

結局、試合は9対8の打ち合いを城西が制し、前年の雪辱を晴らしましたが、高橋慶彦投手が東東京大会でこれだけ打たれた試合は他にありません。当時の日大一は本当に強かった〜!

そして準決勝のもう1試合は名門!早実と、当時はまだ春夏通算甲子園出場のなかった二松学舎

二松学舎は、1971年に創部以来はじめて決勝戦に進出しましたが、前出の保坂英二投手擁する日大一に2対12で負けており、夏はそれ以来になる二度目の決勝戦進出。二松学舎もまだ野球新興校でした。

一方の名門!早実も、夏は1960年を最後に優勝から遠ざかっており、1970年に続き前年1973年は、繰り返しますが当時夏は東京最強だった日大一に共に決勝で敗れています。



近年、高橋慶彦氏は二松学舎より早実の方が嫌だったと回想しており、今は二松学舎は東京の強豪校、野球名門校ですが、当時は城西と同じで甲子園出場のない学校だったので、この気持ちは正しいでしょう。


結果は、4対2で二松学舎早実をやぶり、決勝戦進出はどちらが勝っても春夏通じて甲子園初出場になる城西と二松学舎でした。

 

試合は城西が初回に先制点を奪うも、2回裏に二松学舎は2点を取り逆転。四回表に城西は追いつき試合は2対2のまま9回の攻防。

 

9回表に城西が3点を奪い勝負あり!5対2で城西が二松学舎をやぶり甲子園初出場を決めました。

まぁ〜当時の東京は、春夏合わせて日大付属か?堀越あたりが甲子園の常連だったので、城西という校名は「えっ?城西って野球強かったっけ?」と、東京者達は、ちょいと驚きでした。

ちなみに今や東京の野球名門校の帝京も、この大会は準々決勝で日大一相手に敗退。夏は準々決勝の壁が破れない学校で、初めて1977年、そして1978年と連続で決勝進出するも共に早実にやぶれています。

こちらも今は東京の野球強豪校に数えられる関東一も、当時は5回戦の壁をやぶれない野球無名校で、今は強豪のこれら東京の野球新興勢力の中では、実は城西が真っ先に甲子園出場しています↓。

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最後になりますが、翌1975年の東東京大会は早実が決勝で日大一をやぶり15年ぶりに夏の甲子園に出場。この頃から早実は名門復活という感じになりましたが、逆に夏は東京最強だった日大一の時代が終焉。

春夏通じ日大一はこの後、1984年と1988年の夏に二度甲子園に出場しておりますが、平成、令和になってから完全に甲子園から遠ざかっており、2023年の東東京大会は、都立足立新田相手に一回戦敗退。

というわけで、2001年を最後に日大一は東東京大会で準々決勝進出もないので、今の若い高校野球ファンに、日大一が東京の野球強豪校の印象はないでしょうね。