1993年にゲイリー・ムーアのソロアルバムプロジェクトから、結果的に「そうなった」ジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーとの『BBM(ベイカー・ブルース・ムーア)』。
『BBM』名義で完成したアルバム「白昼夢」は1994年5月にヴァージン・レコードからリリースされ、同年6月に全英チャート最高9位を記録。7月までライブツアーを行いますが、仲違いでバンドは即崩壊!
古のクリームファンなら「だってジンジャーとジャックがいるんだから、そうなるに決まってるさ」と苦笑いした事件だったと言えるでしょう。
ジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルース、エリック・クラプトンのトリオで1966年に結成された『クリーム』は人気爆発した1968年に仲違いで解散してしまったのは、ロック伝説で有名な話です。
でも『ジミ・ヘンドリックス&エクスペリアンス』と共に、ギターソロが長いインプロビゼーションが売りのロックムーブメントを起こした時代の寵児だったクリームの、3人のその後の活動はとても面白い。
まず注目されたのが元祖!スーパーグループ、スーパーバンドの『ブラインドフェイス』。このバンドには『クリーム』の二人、エリック・クラプトンとジンジャー・ベイカーが参加していたからです。
『クリーム』の二人に『スペンサー・デイヴィス・グループ』、『トラフィック』のスティーヴ・ウインウッド。『ファミリー』のリック・グレッチの4人からなるブラインドフェイス。
このバンドは『クリーム』以上のサムシングニュー!何かとてつもない事が起きる、起こせるバンドだと世界中の音楽好きの若者達は思ったものでした。
が、1969年6月のデビューコンサートからアルバム1枚残し(英米ともにチャート1位)、『クリーム』どころではない活動期間の短さで同年10月には早くも空中分解。
結局、ジンジャー・ベイカーは少なくとも日本の当時の洋楽好きの音楽ファンの前から、これで消えています。
勿論、ジンジャー・ベイカーもまだ若いですし(30歳)活動をしていなかったわけではないのですが、少なくとも日本で彼のニュースが入ってくることはなくなりました。
リアルタイム当時、ジンジャー・ベイカーが立ち上げたスーパーバンド『ジンジャー・ベイカーズ・エアフォース』が日本でヒットした、或いは音楽雑誌とかで紹介された記憶は私はないですね〜。
ブラインド・フェイスのその後は、エリック・クラプトンがハブられたっぽい、、、
天下の!ジンジャー・ベイカーが立ち上げた『ジンジャー・ベイカーズ・エアフォース』ですから、なかなかのオールスターバンド。
なんと!『ブラインド・フェイス』からベースのリック・グレッチと、シンガーでキーボードのスティーヴ・ウインウッドが参加。
結局、エリック・クラプトンを抜かしたブラインド・フェイスのメンバー3人は皆、ジンジャーについていました。
更には、サックスはブリティッシュブルース界の重鎮!グラハム・ボンドで、ギターはウイングスに正式加入する前だったのでしょうか? 元『ムーディー・ブルース』のレニー・デイン等、錚々たるメンバー。
まぁ〜嫌らしい話ですが、皆さん人気のジンジャー・ベイカーに乗っかって一山当てようと思ってたとしてもおかしな話じゃない(むしろ正しい選択)。
でも、しかし、少なくとも当時の日本はクリーム=エリック・クラプトン!
『ジンジャー・ベイカーズ・エアフォース』が全米チャートにヒット曲を放ったのならともかく、当時の音楽業界、音楽雑誌がジンジャーの新バンドを取り上げるのは難しかったでしょう。
時代が時代なので、『ジンジャー・ベイカーズ・エアフォース』知らなかったかもしれないし。
さて『ブラインド・フェイス』に参加してないので、『クリーム』で一人だけ仲間外れになった感の強いジャック・ブルースも、これもなかなかクリーム解散後の活動は面白いです!
ジャックはまずグループではなく、1969年にソロアルバム「ソングス・フォー・ア・テイラー」を発表しています。
クリーム時代からの音楽共同制作者、作詞家のピート・ブラウンと『クリーム』のプロデューサー、フェリックス・パッパラルディと、実はこちらも『クリーム』色が強いメンツでのソロアルバムでした。
クリームのリードシンガーは基本ジャック・ブルースでしたし(クラプトンもレパートリーがありましたが)、自分の作曲能力にもジャックは自信を持っていたからソロアルバム制作だったことでしょう。
まぁ〜私的にはこのジャク・ブルース派が、特に!ジンジャー・ベイカーと(エリック・クラプトンも)ソリが合わなかったと思ってます。
更には世界的な人気グループですから、楽曲には莫大な印税が絡んで来ますから揉めたのではないか?と思ってますが、『クリーム』解散後の見事な二派の分裂ぶりです(笑)。
ジャックの「ソングス・フォー・ア・テイラー」は、そこは天下の!クリームのジャック・ブルースですからイギリスでは売れたそうです。
が、こちらもリアルタイム当時の日本で話題になった記憶は、私はありません。繰り返しますが、当時の日本では『クリーム』人気=エリック・クラプトンでしたから。
ジャック・ブルース、ミッチ・ミッチェル、ラリー・コリエルのスーパーバンドが、もし成功してたら、、、
で、日本では当時話題になる事もなかったジャック・ブルースでしたが、『クリーム』解散後の活動は一番!アクティブだったかも?
ソロアルバム発表の同年、ジャックは『ジミ・ヘンドリクス&エクスペリエンス』のミッチ・ミッチェルとジャズロック的なアプローチの先駆者ラリー・コリエル、そしてマイク・マンデルとバンドを結成↑。
エリックとジンジャーの『ブラインド・フェイス』、そしてジンジャーの『ジンジャー・ベイカーズ・エアフォース』と同じように、ジャックもまた!スーパーバンドを目指していたわけです。
ラリー・コリエルの弾く「サンシャイン・ラブ」等『クリーム』のヒット曲のギターソロは、今聴いても革新的で、まさに!ジャズロック。
ですが、残念ながらこのジャックのグループがリアルタイム当時、日本で紹介された記憶も私はないです。
ラリー・コリエルは、まだ1970年代後半〜80年代ほど人気はなかったですし、『ジミ・ヘンドリクス&エクスペリエンス』も、ジミだけ抜群の人気で、ミッチ・ミッチェルは日本でさほど人気でもなかったし。
で、ジャックにしてみたら、ジンジャーがいなくてもミッチ・ミッチェルがいるさ。エリックよりラリー・コリエルの方が本当はスゲーんだぞ〜!的な意気込みがあったでしょう。
また、ラリー・コリエルにしても商業的にせこくなってしまったジャズシーンより、商業的にでかい!ロックシーンで、有名な!ジャックとミッチとやれば面白い事が起きる。
もしかしたらエリック・クラプトンやジミ・ヘンドリックばりの人気者に、自分もなれると思ってたかもしれないです(憶測ですが)。
というわけで、このバンドはとても時代の先取りだったわけですが、まだ時代がおっついてなかったので成功とは言えず、やっぱり空中分解。
ジャックはラリー・コリエルと共にジャズドラマーのトニー・ウィリアムスと活動をするようになり、一時、完全にロック、ポップスシーンから消えています。
さてここでもう一人、クリームのレコーディングプロデューサーを務め、ジャックのソロアルバムも手がけたフェリックス・パッパラルディがまた面白い!
クリームの大成功を目の当たりにしての影響か?1968年にフェリックス・パッパラルディはアメリカで、自分がベーシストとして参加するバンド『マウンテン』を結成します。
そんな『マウンテン』は、いきなり、1969年のウッドストックフェイスティバルにも登場し、シンガーでギタリストのレスリー・ウエストは大いに注目され、1970年になると颯爽とレコードデビュー!
「ミシシッピー・クィーン」のヒットにより、『マウンテン』はアメリカに限らず、日本でも大人気になりました。
が、しかし、これがおそらくエリック・クラプトンが『クリーム』に嫌気がさした原因と思える事が、レスリー・ウエストとフェリックス・パッパラルディの間でも起きてしまいます。
ミシガン大学でクラシックを専攻していたフェリックス・パッパラルディは、クラシック好きなジャック・ブルースとクリームのレコーディングで「そんな要素」を持ち込もうとしました。
エリックはブルースを演奏したいし、当時はあまり作曲も得意ではなかったので、作曲者のジャックとプロデューサーのフェリックスに、力関係で押され自分の意見は封殺されたと思われます。
一方、レスリー・ウエストもブルース、ロックを演奏したい。クラシカルな要素を入れたブログレにバンドが行くのは嫌だという思いがあり、やっぱりフェリックス・パッパラルディと衝突。
『マウンテン』も『クリーム』と同じで、人気絶頂の1972年に解散してしまいます。
そしてレスリー・ウエストとドラマーのコーキー・レイングは、『マウンテン』解散後、ここでジャック・ブルースとバンドを組むんです。
その名も『ウェスト、ブルース・アンド・レイング(West, Bruce & Laing、WB&L)』。
そしてなんと!この『WB&L』の1973年の来日が決定!クリームは来日公演してませんし、まだ当時はエリック・クラプトンも初来日を果たしていませんから、そりゃーもう大騒ぎ!
なんたってレスリーとコーキーの『マウンテン』はアメリカでも人気バンドで、そこにあの!『クリーム』のジャック・ブルースが加わるのですから、まさしくこれぞ!スーパーバンドですから。
ところが!ジャック・ブルースがやっぱり脱退しちゃって、来日企画は頓挫。
結局、企画はマウンテン再結成に変更され、フェリックス・パッパラルディが再びベーシストとして加入し(コーキーは不参加)、来日公演を行なっています。
が、やっぱりレスリーとフェリックスの溝は埋まらず結局マウンテンはまた解散。
でも、日本にとっては明るいニュースもあり、このマウンテン来日公演のオープニングアクトを務めた日本のクリエイションは、ここでフェリックス・パッパラルディと交友関係を築いています。
そして後にフェリックスと共にアメリカツアーを敢行し、一緒にアメリカレコーディングも行っております(クリエイション、セカンドアルバムがそれ)。
商業的にはエリック・クラプトン一人勝ちでしたね〜
そんなこんなでクリーム解散後、紆余曲折あったエリック・クラプトン待望の初来日(1974年10月)。
エリックは『ブラインド・フェイス』空中分解後、初のソロアルバムで協力してくれた仲間たちと新バンド『デレク・アンド・ドミノス』を結成し、スタジオアルバムとライブアルバムを1枚ずつ出しました
が、やっぱりこのバンドも内部分裂してしまい、その後エリックはドラッグとセックス三昧の引きこもり生活に入ってしまい、何とか復活後はもうバンドではなくソロでやる覚悟を決めた直後の初来日でした。
エリックは、そんなこんなでフェリックス・パッパラルディとはソリが合わなかったのか?(ジャックと親しかったから?)クリーム以降一緒に仕事をしていません。
が、クリーム時代からのレコーディングエンジニアのトム・ダウドとの仲は継続し、そのトム・ダウドプロデュースのアルバム「461オーシャンブールバード」が、復帰オリジナルアルバム第一弾でした。
そしてアルバムから、ボブ・マーリー作のカヴァー「アイ・ショット・ザ・シェリフ」 がシングルカットされ、なんとこれが自身初の!全米1位の大ヒット!
まぁ〜カリスマ・スーパーギタリストのエリック・クラプトンに、世界中のロックファン達は『クリーム』以上に凄いことになるであろうスーパーグループを期待していたのは、間違いなかったです。
でも、エリック本人は全くその気は『ブラインド・フェイス』以降、ありませんでしたね。
まぁ〜もしエリックが金銭的に困窮していたら、ちょとしたメンバー集めてのスーパーバンド、或いは『クリーム』再結成とかあったでしょう。あの頃と同じことをやれば、かなり儲かったと思いますから。
でも、エリックはもう十分金持ちだったし(ジャックもジンジャーも)、エリック・クラプトンという男が、どれだけ人気があってどれだけ集客やレコードセールスができるか?自分でわかっていたでしょう。
だから、また不愉快な思いをしてイギリスの先輩年上ミュージシャンのジャックとジンジャーと『クリーム』をやる理由がない。スーパーバンドもしかり。一人でも十分商売になる事はもうわかっていた。
結局、エリック・クラプトン本人が、ギターソロにクリーム解散後、興味がなくなってしまったのでしょう。ファンの方なら釈迦に説法ですが、エリックのリードギターはクリーム以降、特に変貌はないです。
なので、世界中のギターフリークの期待を裏切った形の(笑)、女性コーラスやキーボードやサポートギターまで入れた大編成での、弾き語り&ちょっと緩いギターソロのライブスタイル。
今はエリック・クラプトンの定番バンド、ライブスタイルは初来日の頃に確立したと言えます。
ジミ・ヘンドリックスと共に、超絶な長いギターソロをロックシーンの花形にしたエリック・クラプトンは、そういうバンドが沢山出て日本で言うニューロックが花開いた頃、自らその座から降りちゃった。
あとは誰もがご存知、そんなエリック・クラプトンの商業的には一人勝ちですから、世界中のギターフリークを裏切ったあのスタイルは、長い目で見るとクラプトンにとって正解だったわけです。