漫画「巨人の星」でも描かれていた、星飛雄馬入団の1968年の読売ジャイアンツのドラ1ルーキー、高田繁氏。
V9ナインとしても有名な高田繁氏ですが、当時のV3読売ジャイアンツで、1年目からレギュラーを獲得するのは並大抵の事ではなかった筈です。
前年、V3の読売ジャイアンツの外野手で、100試合以上出場したのは柴田勲氏、国松彰氏の2人だけで、外野手の確たるレギュラーは、このお二人だったと言えるでしょう。
で、あと一人が大変で、広島カープから移籍の森永勝也氏が83試合、生え抜きの相羽欣厚氏が80試合、末次民夫氏が77試合。西鉄ライオンズからの移籍組の田中久寿男氏が74試合、同じく高倉照幸氏が73試合。
41試合出場の吉田勝豊氏が1968年は西鉄ライオンズに移籍したとは言え、この5人との外野手のレギュラー争いは、ルーキーの高田繁氏には熾烈だったと思います。
森永勝也氏は広島カープ時代の1962年のセリーグ首位打者のベテランで、24歳の相羽欣厚氏は中京商から入団して7年目。26歳の末次民夫氏も中央大から入団して4年目、お二人とも1968年は勝負の年。
そして、森永勝也氏もしかりでしたが、田中久寿男氏と高倉照幸氏は、王貞治氏と長嶋茂雄氏の『ON』に次ぐ5番を期待され西鉄ライオンズから移籍してきた、実績あるベテランです。
移籍1年目、前年1967年の高倉照幸氏は73試合出場で15本塁打放っており、これは47本の王貞治氏、19本の長嶋茂雄氏、18本の柴田勲氏に次ぐ本塁打数ですが、試合数・打席数を考えると凄い本塁打率。
結果、1968年の開幕スタメンは、その高倉照幸氏が正に!『ONに次ぐ』5番レフトで登場しますが、一方のルーキー高田繁氏も、開幕2戦目に早くもスタメン出場。
川上哲治監督は『高倉と高田』にレフト、『国松と末次』にライトのポジション争いをさせようという意図はありありで、その結果、高田繁氏が高倉照幸氏とのポジション争いに勝つのは6月になっての事。
なので、高田繁氏は1年目から3割を打つ大活躍で新人王を獲得しますが、規定打席に達しなかったのは、前半での高倉照幸氏との併用が理由です。
結果、人気・実力ともに抜けていた柴田勲氏は別格として、1968年に外野手として100試合以上出場したのは、120試合の高田繁氏、117試合の国松彰氏、111試合の末次民夫氏の4名。
国松彰氏は翌V5になった1969年も、まだまだ末次民夫氏とレギュラー争いをし113試合に出場している『いぶし銀』のV9ナインでしたが、V5の1970年を最後に36歳で現役引退。
レフトのレギュラー争いで高田繁氏に敗れた高倉照幸氏は、1968年シーズンオフにアトムズに移籍。熾烈なレギュラー争いに入れなかった田中久寿男氏氏も、古巣の西鉄ライオンズに移籍。
もう一人の移籍組のベテラン森永勝也氏は、1968年から主に代打起用になり出場試合も減り、V6の1970年に引退。古巣の広島カープに戻りコーチに就任しています(後に監督)。
まぁ〜移籍組でベテランのこのお三方と違い、チーム生え抜き20代の相羽欣厚氏は、1968年の高田繁氏と末次民夫氏とのレギュラー争いに完全に敗れ、試合出場が激減しました。
そんな相羽欣厚氏は、V8の1972年まで外野の控えとして活躍しますが、翌年から南海ホークスに移籍。
最後になりますが、柴田勲氏、高田繁氏、末次民夫氏の外野のレギュラーがほぼ固まっても、読売ジャイアンツは1969年に大洋ホエールズの主砲、桑田武氏をトレードで獲得。
恒例の!王貞治氏、長嶋茂雄氏の『ON』に続く5番打者として期待された桑田武氏は、外野も守れる選手でしたので、高田繁氏も末次民夫氏もレギュラーを獲得したとは言え、安心はできなかった筈です。
結果的に桑田武氏は期待に応える活躍ができす、1年でヤクルトアトムズに移籍しましたが、1966年の立教大からのドラフト1位捕手、槌田誠氏が打撃を生かして外野にコンバートされたのも1968年。
槌田誠氏は主に代打でしたが、首脳陣の期待に応え1968年の打率は.320。同年にほぼレギュラーを獲得した高田繁氏、末次民夫氏にとって、槌田誠氏もまた怖い存在だった筈です。
更にはV5の1969年のドラフトでは中央大の萩原康弘氏、V6の1970年には三田学園の淡口憲治氏と、読売ジャイアンツは二人の外野手を指名獲得しています。
というわけで、1968年に外野の厳しい競争の中レギュラーを獲得した高田繁氏、末次民夫氏のお二人でしたが、その後も、いつレギュラーを誰に奪われるかわからない状態だったのは間違いありません。