原辰徳氏は東海大相模時代、何処に負けたのか?

 

原辰徳氏は東海大相模高校時代、甲子園の春夏全国大会に4回出場していますが(3年春の選抜は出場ならず)、全国制覇は一度もありません。

最も惜しかったのが原辰徳氏2年になる1975年春の選抜で、延長13回で高知県の高知に敗れ準優勝。この時が高校時代唯一の全国制覇のチャンスでした。

高知も選抜は2年連続8回目の出場で、前年の選抜も永川英植を擁し選抜2連覇を狙う横浜相手に、1対0のサヨナラ勝ちをしており、このサヨナラヒットを放ったのが2年生の杉浦繁氏。

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翌春の東海大相模との決勝戦で、延長13回に決勝三塁打を放ったのも3年生になるこの杉浦繁氏で、彼は選抜で2年続けて神奈川代表相手にサヨナラ打を放ってやぶりました。

杉浦繁氏は、同年のドラフト1位でヤクルトスワローズに指名され入団し、現役引退後は、一時、横浜ベイスターズに移籍しましたが、長年ヤクルトの打撃コーチをつとめています。

 

 

ちなみに同年、読売ジャイアンツにドラフト1位指名されたのが、2年夏に全国制覇した銚子商篠塚利夫氏でした。

 


注目すべきは、原辰徳氏が東海大相模在学中の関東代表はとても強く、原辰徳氏1年夏の甲子園大会は、その篠塚利夫氏2年時の千葉県の銚子商が優勝。

 

2年春の選抜は自らの東海大相模が準優勝、2年夏も千葉県の習志野が優勝。東海大相模が選抜出場を逃した3年春の選抜は、栃木県の小山が準優勝。夏は東京の桜美林が優勝しています。

 

というわけで、原辰徳氏在学中5季のうち関東勢は甲子園で3季優勝、2季準優勝の圧倒的な強さを誇っていました。

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なので、1975年に選抜準優勝した東海大相模ですが、実はそんな強い関東勢の関東大会決勝戦では、栃木県の小山に延長14回の末敗退している、選抜は関東ナンバー2出場。

更にこの選抜では、東京大会を制し5年ぶり3回目の出場を果たした堀越が、あれよあれよで準決勝進出しましたが、その相手が東海大相模でした。

選抜二度目の決勝戦進出を狙う東京No.1の堀越と、関東No.2の東海大相模の注目の一戦は6対2で東海大相模が勝ち、選抜で初の決勝進出を果たし準優勝しています。

参考資料ですが、東海大相模に延長で勝った高知の高知県代表は、とても高校野球が強い印象が誰でもあると思いますが、選抜は準優勝は複数回されど優勝したのは、この大会が初でした。

 

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原辰徳氏は、1年夏の準々決勝で鹿児島県の鹿児島実業延長15回4対5でやぶれてますが、一回戦も超高校級投手!工藤一彦氏(後の阪神タイガース)擁する土浦日大に延長16回、3対2で勝利してます。

この試合、6回裏に東海大相模が1点を先制するも、7回8回に土浦日大に1点ずつ取られ敗色濃厚の2対1の9回裏、粘りの東海大相模は同点に追いつき延長戦でサヨナラ勝ちしました。

そして、準々決勝の鹿児島実業戦も3対2の劣勢の9回裏、粘りの東海大相模は追いついてまた延長戦。

延長14回表に鹿児島実業に1点を取られますが、その裏にしぶとく東海大相模は追いつくも、延長16回に力尽き敗れています。

まぁ〜この東海大相模との一戦により、鹿児島実業定岡正二氏は女性ファンにもプロ野球関係者からも注目されるようになり、同年のドラフトで読売ジャイアンツに1位指名されたと言っても良いでしょう。

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更に東海大相模は、翌春の準優勝した選抜の準々決勝も、沖縄の豊見城相手に9回表を終わって0対1。9回裏の東海大相模の攻撃も2アウトランナーなしで万事休す(ツーアウト目は原辰徳氏の三振)。

ところが、ここが粘りの東海大相模の凄い所で、4番の津末英明氏が二塁打を放つと、ここから7番まで4連打で同点(最後はポテンヒット気味)、劇的な逆転サヨナラ勝ちでした。

そして決勝戦の高知戦も、4対5の劣勢を8回裏に東海大相模は追いつき延長になってますから(延長13回表に5点を取られ負けています)、随分と痺れる試合を、当時の東海大相模は毎回やってましたね〜。

 


そして、原辰徳氏2年夏の神奈川県大会も東海大相模は2年連続で制し、甲子園大会も前年夏に続いて準々決勝進出し、相手は強い!関東勢の埼玉県の上尾。

この試合は東海大相模の土壇場のしぶとさを、逆に上尾に示され、4対2でリードしていた東海大相模でしたが、8回表に上尾に3点取られ逆転負けしています。

これで原辰徳氏の甲子園3大会目の3敗目ですが、3試合とも激戦、接戦での敗戦ですから判官贔屓の日本人、敗者好きな日本人にとって原辰徳氏は悲劇のヒーローに映り、人気は更に爆発しました。

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で、上尾は次の準決勝で、愛媛県新居浜商に5対6で敗退しましたが、決勝でその新居浜商を千葉県の習志野が同点からの9回裏に1点を取りサヨナラ勝ちでくだし、2年連続で夏は千葉県代表が全国制覇。

この時の習志野のエースが、甲子園大会で肩を壊してため中央大学に進学後は野手に転向、社会人野球を経てヤクルトスワローズに入団する小川淳司氏でした。

が、人気爆発の原辰徳氏でしたが、新チームになり最後の選抜出場を目指す神奈川県秋季大会準々決勝で、東海大相模は横浜に5対6で敗れ選抜出場は絶望。

原辰徳氏が5回の甲子園出場のチャンスのある高校時代、唯一出場を逃したのが、この3年最後の選抜でしたから、これは当時かなり話題になりました。なんたって女性人抜群だった「原く〜ん」でしたから。

 

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ところが、東海大相模に勝った横浜と、決勝戦で横浜に勝った横浜商が神奈川県代表で関東大会に出場しますが、本当に当時の関東代表はどこも強く共に1回戦敗退。

結局、関東大会2年連続優勝の栃木県の小山が選抜大会でも準優勝(優勝は広島県の崇徳)。小山に負けた関東大会準優勝の習志野は新チームとはいえ、夏の全国大会優勝校。当時の関東勢は強豪揃いでした。

そして原辰徳氏、3年最後の夏の神奈川県大会を3年連続で制し通算4度目の甲子園大会。初戦を北海道の釧路江南を5対0とくだし、2回戦の相手は秋季関東大会優勝、春の選抜準優勝の強豪!小山。

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優勝候補同士の試合は0対1の投手戦の末、小山が勝利し原辰徳氏の東海大相模は2回戦敗退と、春の選抜は出場できませんでしたし、夏は2回戦負けと、3年の原辰徳氏は良いところがありませんでした。

勝った小山は3回戦で、前年春の選抜で東海大相模のあと1アウトが取れず逆転負けした沖縄代表、豊見城の赤嶺賢勇氏(同年ドラフト2位で読売ジャイアンツに入団)に1対2と抑えられ敗退。

勝った豊見城も準々決勝で、後の中日ドラゴンズの2年生エースだった小松辰雄氏の、石川県の星稜に0対1で負けています。

結局この夏の大会、その星稜を準決勝で4対1でやぶった、全くの無印で初出場の西東京代表の桜美林が、決勝でも大阪のPL学園を延長でやぶって何と初優勝!

本当に当時の関東勢は、どこも強かったですね〜。

 

・1974年 夏 全国大会
2回戦 東海大相模3x−2土浦日大(延長16回)

3回戦 東海大相模13-6盈進

準々決勝 鹿児島実業5-4東海大相模延長15回

 

・1975年 春 選抜大会

2回戦 東海大相模1−0倉敷工

準々決勝 東海大相模2x−1豊見城

準決勝 東海大相模6−2堀越

決勝 高知10-5東海大相模(延長13回)

 

・1975年 夏 全国大会

2回戦 東海大相模5−3松商学園

3回戦 東海大相模7-3三重

準々決勝 上尾5-4東海大相模

 

・1976年 夏 全国大会

1回戦 東海大相模5−0釧路江南

2回戦 小山1-0東海大相模