G馬場氏を担いだ日本テレビ、A猪木氏を担いだ現テレビ朝日


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1971年12月、日本プロレスアントニオ猪木氏を会社乗っ取り疑惑で除名処分を下しますが、困ったのが今のテレビ朝日

プロレス中継後発のテレビ朝日は先発の日本テレビと、ジャイアント馬場氏の試合は放映しない。テレビ朝日は、アントニオ猪木氏の試合がメインという取り決めをしていたからでした。

だからその猪木氏を除名されたのでは、テレビ朝日はプロレス中継の死活問題なので、日本プロレスに馬場氏の試合を放映できるよう強硬に要求し、結果、日本プロレスはこれを承諾。

1972年4月に馬場氏の試合をテレビ朝日が放映したので、日本テレビは激怒。スポンサーの三菱電機と協議した結果、プロレス中継を5月12日を最後に打ち切ってしまいました。

まぁ〜金曜夜8時の日本テレビは「三菱ダイヤモンド・アワー」という番組枠で、ウォルト・ディズニーが司会をつとめるバラエティー番組「ディズニーランド」と日本プロレスを隔週で放映。

これが1968年2月からは日本プロレス一本の放映になったほど、日本プロレスは人気番組だっただけに、日本テレビは相当!当時の日本プロレスの対応に、ブチ切れたのでしょう。


結局、急遽!日本プロレス中継を中止にしたので、後番組は予定がなかったのでしょう。プロレス名勝負を放送したりして時間を稼ぎ、そして7月21日から放映されたのが刑事ドラマの「太陽にほえろ!」。

結果的に人気の長寿番組になった「太陽にほえろ!」ですが、とっかかりは日本プロレスの内紛と、それに伴うテレビ朝日日本テレビのテレビ局の争いでしたので、製作当初はドタバタだった事でしょう。

更に日本テレビの怒りは収まらず、秘密裏に馬場氏に接触し、日本テレビの全面バックアップで新団体設立を画策。7月29日に馬場氏は日本プロレスを退団。新団体設立を発表しました。

馬場氏の全日本プロレスは、10月より土曜日の夜8時から日本テレビで放映が開始され、有名外国人選手の招聘にも成功しましたが、馬場氏の他の日本人選手のネームバリュー不足は否めませんでした。



一方、日本プロレスを除名になった猪木氏も同年1月に早くも新日本プロレスを立ち上げますが、有名外国人選手を招聘できず、まだテレビ局も付かずの大苦戦。

で、馬場氏、猪木氏の人気レスラー二人を失ったうえ、日本テレビの放送も打ち切られた日本プロレスはピンチ。また、テレビ朝日も馬場氏も猪木氏も登場しないプロレス中継ではやっていけない。

年が明けた1973年、そういうわけで視聴率の取れないテレビ朝日の画策で、新日本プロレス日本プロレスの合併計画が発表されますが、大木金太郎氏はじめとした日本プロレスがこれに大反対。

合併計画に奔走した日本プロレスの、馬場氏、猪木氏に次ぐ人気レスラーの坂口征二氏はこれにて日本プロレスを退団。新日本プロレスに移籍しました。


こうなると猪木氏と坂口氏の人気レスラー二人のいる新日本プロレスは魅力的ですから、遂に!テレビ朝日日本プロレスを見限り、新日本プロレスと新たに契約を交わし、待望の猪木氏の試合の放映開始。

これにて馬場氏の全日本プロレス日本テレビ、猪木氏の新日本プロレステレビ朝日と完全に分裂したわけですが、テレビ放映もなくなり人気レスラーは大木金太郎氏だけの日本プロレスは窮地になります。

馬場氏の全日本プロレスも日本人レスラーが手薄なので、国際プロレスからサンダー杉山氏を獲得し、国際と交流試合も行うようになり、全日本でも新日本でも国際のレスラーはとても良い仕事をしました。

そして、にっちもさっちも行かなくなり崩壊した日本プロレスの残党レスラーを全日本は吸収しますが、これは日本テレビの仲介で行われたもので、馬場氏はあまり乗り気ではなかったそう。



まぁ〜そんなこんなで、結果的には猪木氏の思惑通り団体を超えた日本マット界最強レスラーは誰か?という風潮がプロレスファンの間でも吹き荒れ、日本人レスラー同士の頂上対決が大人気になりました。

残念ながら『馬場VS猪木』戦は実現しませんでしたが、日本プロレス最後のエースの大木金太郎氏も国際プロレス最後のエースのラッシャー木村氏も、馬場氏とも猪木氏とも戦っております。

国際のエースだったストリング小林氏と猪木氏の対決は、本当に世紀の対決で、あの一戦があったから新日本プロレスはつぶれなかったとすら私的には思っています。

1971年から1974年は、正に!日本マット界は風雲急。戦国時代の様相でした。

 

A猪木氏がG馬場氏に挑戦を表明した日!


 



1969年5月、第11回ワールドリーグ戦は熾烈を極め、リーグ戦が終わってジャイアント馬場氏、アントニオ猪木氏、ボボ・ブラジル、クリス・マルコフの4人が6勝1敗1分で並んでいました。

抽選の結果、対戦は『馬場VSブラジル』、『猪木VSマルコフ』になり、本命の馬場氏はブラジルと引き分け、猪木氏がマルコフをやぶったことで猪木氏が初優勝を決めています。

この試合が『アントニオスペシャル』=卍固めが有名になった試合で、猪木氏のあの!闘争心あふれる強烈なパフォーマンスは、テレビの前のプロレスファンに大いにアピールされました。


が、しかし!遡れば猪木氏がワールドリーグ戦に初めて出場したのは第4回でしたが、戦績は7戦全敗。翌年の第5回も猪木氏は出場しますが、再び5戦全敗。

当時の日本プロレスにとって猪木氏は、その程度の扱いのレスラーだったわけです。

一方、アメリカ武者修行を終え、あちらで人気者になって凱旋帰国の馬場氏は、猪木氏より1年遅れの第5回が初出場でしたが、戦績は4勝2敗1分と最初から好成績でした。

同期なれど年上で元プロ野球選手という話題性のあった馬場氏より、遅ればせながら無名の猪木氏も1964年にアメリカに武者修行に出たので、ワールドリーグ戦出場は途絶えます。

猪木氏がアメリカ遠征中の第6~7回は豊登が優勝しますが、馬場氏は第6回も5勝1敗1分、第7回も5勝1敗1分の好成績で、日本プロレスの次のエースとして、馬場氏は日本でも人気者になっていきました。

さてここで2年のアメリカ武者修行を終えた猪木氏は、豊登と共に日本プロレスを辞め東京プロレスを立ち上げました。日本プロレスの方針が「これからのエースは馬場」と固まっていたからでしょう。



ところが!晩年にそれが発覚しますが、ギャンブル好きで金銭感覚の狂ってる、そして経営センスも0の豊登の思いつきの東京プロレスは、僅か3ヶ月で破産。

 

猪木氏は豊登と決別し、日本プロレスから独立した国際プロレスと業務提携(東京プロレスを名乗るも豊登は関与してない)するも、その後は豊登側と訴訟合戦になり国際プロレスに提携を打ち切られます。

結局、東京プロレスは大失敗に終わり、猪木氏は日本プロレスに復帰し(豊登に唆された被害者との温情もあったのでしょう)、豊登国際プロレスに合流します。

 

そんなこんなの一悶着があったので、猪木氏のワールドリーグ復帰は、馬場氏が3連覇を成し遂げた1968年、第10回から。

 

アメリカ武者修行前は2年連続全敗だった猪木氏が、帰国後は東京プロレスでエース級の活躍をしていたので、ここで優勝した馬場氏に僅差のNo.2の位置まで、一気に上り詰めてます。

また、猪木氏は馬場氏と組んだインターナショナル・タッグチャンピオンにもなり、当時の猪木氏のスタイルは当時としては、ドロップキック含めとてもスピーディーでテクニシャン!

吉村道明氏もテクニシャンでしたが、年齢的にスピードが猪木氏より劣っており、何より猪木氏のあの!パフォーマンスは、当時としては他に例を見ない『魅せるスタイル』だったので、観客は魅了されます。


そして前出の通り1969年のワールドリーグ戦では見事に初優勝。猪木氏は日本プロレスの思惑通り、日本プロレスNo.2としてエースの馬場氏と共に大人気になりました。

1969年、現在のテレビ朝日日本テレビに次いで日本プロレスをテレビ中継することが決まった時、日本プロレス日本テレビの契約の関係上、馬場氏の試合はテレビ朝日では放映できません。

そこでテレビ朝日は、猪木氏の試合をメインで放映する権利を取得。これにてテレビの上では完全に日本テレビの馬場氏、テレビ朝日の猪木氏と日本プロレスの二枚看板になる程、猪木氏は短期間で大出世!

そんな猪木氏は、馬場氏とのインターナショナル・タッグ王者だけの看板ではなく(元々は馬場氏と吉村道明氏のコンビで奪取したベルト)、ピンで1971年にUNヘビー級王者を獲得。

 

猪木氏の人気は馬場氏に迫る、見方によっては追い越す勢いだったのは確かです。

ところが!猪木氏は馬場氏に次ぐNo.2は嫌と東京プロレスに行ったわけですから、この地位に安住するわけもなかったことに、日本プロレスは気づいてなかったんですね〜。


で、猪木氏初優勝の翌1970年の第12回ワールドリーグ戦は、馬場氏はもう限界なのか?猪木氏の2連覇で日本プロレスの歴史は変わるのか?ってなリーグ戦だったと記憶しております。

結果的に馬場氏はクリス・マルコフとドン・レオ・ジョナサンと引き分けの6勝2分で、猪木氏はドン・レオ・ジョナサンには勝ちますが、今度はクリス・マルコフに敗れ6勝1敗1分。

優勝決定戦は猪木氏に負けたドン・レオ・ジョナサンと馬場氏の対戦になり、馬場氏が2年ぶり4回目の優勝を決めており、日本プロレスの歴史が変わることはありませんでした。

そして!問題の、翌1971年のワールドリーグ戦!

この年のワールドリーグ戦は2年前の再現で、リーグ戦を終えた時点で馬場氏、猪木氏、そしてザ・デストロイヤーアブドラ・ザ・ブッチャー4人が、同じ戦績で優勝決定戦に出場しました。


が、しかし、このリーグ戦には疑惑の一戦があり、その4人の優勝戦の前々日、キラー・カール・コックスが猪木氏との試合に一度は勝利したものの、猪木氏のクレームをレフリーのユセフ・トルコが承認。

コックスの勝利は無効になっており、順当に(?)猪木氏が負け、コックスが勝っていれば、優勝決定戦は『馬場VSコックス』でした。

ちなみにユセフ・トルコは、この後の猪木氏の新日本プロレスの立ち上げに関わっており(すぐに揉め去りますが)、この『猪木VSコックス』戦はどうにも怪しい。

結果、抽選によりデストロイヤーと対戦した猪木氏は引き分けで優勝できませんでしたが、この試合は、両者思わくありのセメントだったと私的には思っております。

猪木氏はデストロイヤーに勝って、ブッチャーに勝つであろう馬場氏と優勝決定戦をやる気だと、デストロイヤーは疑惑のコックス戦で感じたんじゃないでしょうかね〜?

でも、デストロイヤーが勝って馬場氏との優勝決定戦に出たら、外人レスラーとして二度目の優勝決定戦出場になりますから、これは当時の日本プロレスではタブー。

外人レスラーの優勝決定戦出場は一度だけという暗黙の了解があったので、デストロイヤーは勝つわけにもいかない。だから引き分けに持ち込んだのではないか?と、今も勝手に私は思ってます。


日本のマット界では日本人レスラーの引き立て役ですが、彼ら外人レスラーは欧米で相当な!修行を積んだ圧倒的な実力を持つ百戦錬磨ですから、勝てないまでも負けない試合ぐらい簡単にできるでしょう。

試合は17分過ぎ、デストロイヤーが必殺!四の字固めを決めますが、結果はそのまま二人はもつれてリング下に落ち、両者リングアウトの引き分け。

あのまま四の字固めを決め続け、猪木氏にギブアップさせることがデストロイヤーは出来たのに、わざと引き分け狙いに行ったのではないか?と、私的には今も思っています。

デストロイヤーは日本プロレス分裂後、馬場氏の全日本プロレスについて馬場氏を盛り立てていたのは、昭和プロレスファンなら誰もが知ってる事ですし、かなりのインテリだったとも伝わっています。


結果は、当時はまだそれほど日本で人気者ではなかったブッチャーのエルボードロップ自爆後、3カウントで勝った馬場氏は、2年連続5回目の優勝を決めました(勝利者インタビューは徳光和夫氏)。

そして、その試合の大阪府立体育館の控え室で事件が起きます。なんと!猪木氏が馬場氏への挑戦を表明したから、そりゃーもうマスメディアは大騒ぎ。時は1971年5月19日。

当時、日本プロレスの対戦は前座はともかく、日本VS外人のカードが普通で、日本人同士の対戦は、これもタブーでしたから本当に大事件でした。

結局、猪木氏と馬場氏の対戦は実現する事なく、同年末に猪木氏は日本プロレス乗っ取り疑惑で除名。

日本プロレス関係者にしてみたら、一度は豊登とともに謀反を起こした猪木氏を温情で復帰させ、しかもNo.2として扱い成功させてやってるのに、なんたる傲慢無礼な奴だってところだったのでしょう。

というわけで、力道山なき後『豊登時代』を経由した、日本プロレス『馬場・猪木』黄金時代は、僅か5年で終わってしまいました。



 

1976年のアントニオ猪木VSモハメド・アリ戦前の二人の事情



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日本のプロレスラー=アントニオ猪木氏と、アメリカのプロボクサー=モハメド・アリ異種格闘技戦は、1976年6月26日(土)に日本武道館で行われました。

アントニオ猪木氏33歳、モハメド・アリ34歳。まぁ〜アスリートとしては、ピークから下降の年齢でしょうか。

人気絶頂だった猪木氏は、諸々あって1971年末に日本プロレスを除名・追放処分を受け、1972年年明けに新日本プロレスを立ち上げ、今のテレビ朝日日本プロレスと決別し、新日本プロレス側につきます。

が、しかし、有名外人レスラーの招聘契約をしっかり握ってる日本プロレス、すぐに全日本プロレスから圧力がかかり、新日本プロレスは有名外人レスラーを呼べませんでした。


ただ、国際プロレス系のカール・ゴッチ(元は日本プロレス)、人気者のビル・ロビンソン。更には日本プロレス崩壊後、こちらも人気の高かったジョニー・バレンタインが新日本プロレスに登場。

なので、団体としてのそんな苦境はファンは微塵も感じなかったですね〜。

また、当時、前座は別にしてタブーだった日本人レスラー同士の対戦を、猪木氏・新日本プロレスは組んだので(実際は前出の理由で苦肉の策だったのでしょう)、これが逆に斬新!

特に国際プロレスのエース!ストロング小林氏との対戦(1974年3月)、日本プロレス時代の仲間、坂口征二氏(1974年4月)や大木金太郎氏(1975年3月)との対戦は、それはそれは大盛り上がりでした。

チャンピオンが乱立している日本マット界で、日本人レスラーで本当は誰が一番強いんだ?とプロレスファンは普通に思っていたので、団体としてそういう事情があってとしても当時は画期的な対戦でした!

というわけで、猪木氏がアリ戦に始まる異種格闘技というのも、有名外国人レスラーが呼べないある種の苦肉の策だったわけですが、こちらは世界の!モハメド・アリですから話題性は十二分!

まぁ〜結局、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン。ハルク・ホーガンなど新日本は自前で有名レスラーを創作し人気者にしましたが、この採算度外視の異種格闘技戦も当時は話題沸騰でした。



ちなみにジャイアント馬場氏も日本プロレスを辞め、こちらは日本テレビが担いだ全日本プロレスを立ち上げますが、そうは言っても運営は楽だったわけではありません。

馬場氏と猪木氏に及ばないまでも、人気者の坂口征二氏が新日本プロレスに行ってしまい、国際プロレスのエース!ストロング小林氏もしかり。

全日本プロレスも馬場氏と並ぶ人気レスラーを獲得しなければならず、将来のスターレスラーも育成しなければならず、白羽の矢が立ったのがミュンヘンオリンピックレスリング代表の、後のジャンボ鶴田氏。

1972年9月に国際プロレスの人気レスラー、サンダー杉山氏を獲得した全日本プロレスは、10月には鶴田氏の全日本プロレス入りを表明、将来のエースとして育成に入っています。

更に、東京オリンピックの柔道無差別級金メダリスト、オランダのアントン・ヘーシンクをスカウト。翌1973年3月には外人人気レスラーのザ・デストロイヤーが、助っ人として参加。

というわけで、新日本プロレスと違い有名外人レスラーの招聘は、日本プロレスから引き継いで圧倒的な力のあった全日本プロレスでしたが、企業努力は新日本プロレス同様、もの凄くしていました。


一方、映画「ロッキー」のモデルになったモハメド・アリジョージ・フォアマンジョー・フレージャー、そしてチャック・ウェップナーの熱戦は1971~1975年で、猪木氏のこの時期とリンクしてます。

まず1971年に26戦無敗のジョー・フレージャーと31戦無敗のモハメド・アリが、無敗同士で対戦しましたが、判定でモハメド・アリは初めて負けています。

そして無敗の世界最強ボクサー!フレージャーは1973年4度目の防衛戦を、こちらも37戦無敗のジョージ・フォアマンと行いましたが、なんと!2RでフレージャーはKO負けの大波乱。

アリに勝ったフレージャーを、2Rで6回もダウンさせた(レフリーストップのKO)フォアマンの最強パンチに、世界のボクシングファンは震撼!度肝を抜かされました。

そのフレージャーに負けたアリもその後は10連勝しますが、その後再びケン・ノートンに判定負けし、これでアリは生涯2敗目。


一方、新チャンピオンになったフォアマンは初防衛戦のホセ・ローマンも1RKO。そして2度目の防衛戦はアリに判定で勝ったノートンを2RKOと、向かう所敵なしの圧倒的な強さを世界に見せつけました。

アリが判定で負けたフレージャーとノートンを、共に2RKOしたフォアマンに、そのアリが挑戦するなど年齢的にもあり得ない。暫くチャンピオンは無敵のフォアマンの時代が続くと思われたものです。

ところがアリはノートンとのリターンマッチを判定で勝利し、ルディ・ルパーズとの判定勝ちを挟み、フレージャーとのリターンマッチも判定で勝利。そして、なんと!フォアマンとの対戦が決定します。

アリとフォアマンは7歳違いで、既に全盛期を過ぎたと思われていたアリに対し、アリの側近からも殺されるからやめろと言われたとか言われないとかの、誰がみても相当!無謀な挑戦でした。

当然、フォアマンも自分がアリに負けるなど夢にも思っていなかったでしょう。自分が共に2RでKOしたフレージャーとノートンにアリは負けていますし、リターンマッチで共に勝ったとはいえ判定勝ち。

ここまで40戦無敗37KOのフォアマンは、24連続KO勝ち。直近8試合は全て2RまでにKO勝ちの怪物ぶりでしたから、アリ戦も最初からフォアマンは猛攻、パンチの連打を繰り出しました。


アリは蝶のように舞いパンチをかわし、追い詰められるとロープを背にガードを固めフォアマンに決定打を打たせませんが、それでも防戦一方のアリの劣勢は否めませんでした。

が、今や「キンシャサの奇跡」と伝説ですが、この直近8試合は全て2RまでのKO勝ちだったフォアマンにとって7Rまでにアリを倒せなかったのは大誤算で、パンチを打ち過ぎ体力も消耗。

8Rになり疲れの見えたフォマンに、ロープを背にしていたアリは1チャンスで体を入れ替えパンチ連打。最後は右のストレートが強烈にヒットし、なんとフォアマンはダウン!

そして、そのままフォアマンは立てずにアリは大方の予想を裏切る逆転KO勝ち。このアリの王者復活は、本当に世界中のボクシングファンの度肝を抜きました。

まぁ〜そんなこんなで、映画「ロッキー」のモデルになった試合、全くの無名ボクサーのチャック・ウェプナーとの一戦は、激戦続きだったアリの映画の通りの小休止的な一戦でした。

ところがフォアマンにKOで勝ったアリでしたが、無名のウェプナーに苦戦。ダウンまで奪われるも15RでやっとKO勝ち。「ロッキー」は判定でしたが、正にあの映画はこの試合がモデル!

1975年3月で、アリは翌年の猪木氏との「世紀の一戦」までウェプナー戦含め7連勝中でした。

モハメド・アリという世界的有名人と、猪木氏は対戦することになったのですから、これは一般のニュースでも取り上げられたので、猪木氏と新日本プロレスの名前を売る事は大成功だったと言えます。

この『世紀の対決』は昼間にも関わらず視聴率40%近くまでまで行ったので、もし当時『馬場VS猪木』戦がセメントで実現してたら(無理だったしょうが)、軽く視聴率50%は超えていたでしょう。


で、異種格闘技戦は実はボクシングのアリ戦が最初ではなく、同年2月に柔道ミュンヘンオリンピック無差別級金メダリスト、オランダのウィリアム・ルスカ戦が最初で、これがなかなかの名勝負!

試合は猪木氏がTKOでルスカに勝ったので、今度はボクシングのアリと猪木氏はどんな試合をするか?それはそれはプロレスファンたちは、期待に胸を膨らませたものでした。

結果的にアリとの一戦は『世紀の凡戦』と叩かれましたが、猪木氏にとっても新日本プロレスにとっても、その異種格闘技戦につながる一戦だったので興行的には大成功だったと言って良いでしょう。

最後になりますが、前出のチャック・ウェップナーとも猪木氏は1977年10月に対戦しており、こちらは6R逆エビ固めで猪木氏が勝っています。


 

5歳時に東京大空襲くらった王貞治氏、広島で被爆した張本勲氏、満州から帰国した坂東英二氏

 



高校野球早実の選抜優勝投手=王貞治氏、徳島商の夏準優勝投手=坂東英二投手、そして浪商の張本勲氏は同期入団。

誰もがご承知の通り、王貞治氏は中華民国籍の父と日本人の母の間に東京都墨田区で生まれ育っており、生まれた翌年に日本は大東亜戦争に突入、5歳の時に東京大空襲を経験してます。

でも、このお三方の中では父が中華料理屋を営んでいた王家が、それでも一番裕福だったようです(今の感覚で言えば普通以下でしょうが)。

張本勲氏は日韓併合時代に朝鮮半島から日本に渡ってきた両親の元、広島で生まれ育ってますが、生まれた翌年に日本は大東亜戦争に突入、5歳の時に家族は広島で被爆。姉が死亡しています。

日本敗戦後、張本勲の父親は朝鮮半島に戻り、生活基盤を整えたら家族を呼び寄せようとしたそうですが急死。母親は日本で闇市でホルモン焼き屋で生計を立ててたようですが、生活は苦しかったとか。

そんな、幸い体と才能に恵まれた張本勲氏のプロ野球への羨望は、母親に家をプレゼントして、腹一杯美味いものを食べる事だったそう。


坂東英二氏の両親は日本人ですが満州生まれで、こちらも5歳で日本敗戦後、満州から日本に戻ってきてるそうですが、現代人には想像を絶する引き揚げだった事でしょう。

で、当時の夏の全国大会の坂東英二氏は準優勝投手で、この大会での延長18回引き分け再試合含め64奪三振は今も夏の大会の記録。それはそれは坂東英二氏は話題の好投手だったと想像できます。

一方、王貞治氏が選抜優勝投手になったのは2年春のことで、3年最後の夏は都大会決勝で明治に延長で負けており、5季連続出場を逃しこの夏の大会には出場していません。

また、張本勲氏の浪商はこの夏の大会に出場しましたが、張本勲氏は部員の不祥事に巻き込まれ出場していないので(濡れ衣だったそう)、メディアの話題性は坂東英二氏の圧勝だったと思われます。


でも、高卒ルーキー東映フライヤーズのその張本勲氏は、打率.275、本塁打13本、打点57で高卒ルーキーとしてパリーグ新人王を獲得。

セリーグ中日ドラゴンズに入団した坂東英二氏は4勝4敗、防御率3,15。読売ジャイアンツ王貞治氏は打率.161、本塁打7本、打点25で、中央大卒の大洋ホエールズ桑田武氏に新人王をとられています。

前年1958年のセリーグ新人王は、立教大卒の長嶋茂雄氏で本塁打王打点王を獲得してますが、桑田武氏も中日ドラゴンズの森徹氏と同数の31本で、2年連続で大卒ルーキーが本塁打

天下の王貞治氏も、ルーキーイヤーは影が薄かったのがわかりますね〜。



 

古のヤクルトのラリー・パリッシュは、MLBで256本塁打放っていた!

 



1989年にヤクルトスワローズ、1990年に阪神タイガースで活躍したラリー・パリッシュは、1974年から1988年までMLB3球団で活躍した、当時の言葉でいう「大リーガー」でした。

ラリー・パリッシュMLBでの通算本塁打は256本(打率.263)。松井秀喜氏のMLBでの通算本塁打数が249本ですから、アメリカでもどれだけの名選手だったか想像がつきます。

そんなラリー・パリッシュが入団する2年前の1987年、ヤクルトスワローズMLBでFA宣言するも折り合いがつかず浪人寸前だった29歳の「現役大リーガー」ボブ・ホーナーを、シーズン開幕後に獲得。

ホーナーは後のラリー・パリッシュより見劣りするとは言え、ここまでM LBで通算215本塁打で、いきなり来日4試合で6本塁打放ち「やっぱり現役大リーガーは違う!」と、日本人の度肝を抜きました。



多くの野球ファンの間で「現役大リーガーのホーナーは、一体何本本塁打を打つんだろ?」と話題になり、本物の黒船来襲!とばかりの「ホーナー旋風」で神宮球場は連日満員。

当然、ヤクルトは自分の所の選手ですからホーナーをCMに起用し、サントリーまでも起用する人気ぶりでしたが、有頂天になったのか?ホーナーは日本の野球を舐めた言動が目立つようになり、反感も買われました。

また日本のピッチャーもそんなに甘くないので、そこまでの怪物のような活躍が出来るわけもなく、怪我もあって規定打席に届かず、成績は93試合で打率.327、31本塁打、73打点。

ご立派な成績なのですが、50本以上本塁打を確実に打つだろう。60本、70本だってあり得る!と当初は思われていたので、終わってみれば「なんだ、普通の凄い選手だっただけか」という感じでした。

 



結局ホーナーは、翌年にはMLBに戻りましたが60試合で3本塁打(.257)を放っただけで解雇。MLBでの通算本塁打218本止まりで、現役を終えています。

 

さて「ホーナー旋風」でヤクルトは気を良くしたのか?1988年にも「現役大リーガー」を二人新加入させています。

それがMLB通算237本塁打(.329)のダグ・デシンセイと、同36本塁打(.253)のテリー・ハーパー。

ヤクルトは前年のドラフト会議で立教大の長嶋一茂氏を1位指名で獲得しており、更には荒木大輔投手が1987年は二桁勝利をあげており(10勝9敗)、かなり華やいだ球団で期待も大きい年でした。



が、しかし、テリー・ハーパーは僅か10試合出場後、膝の故障が発覚。治療のため帰国しそのまま退団。

ダグ・デシンセイも38歳という年齢もあり、試合出場は84試合、本塁打19本、打率.244とホーナー2世とはいかず、この年で現役生活を引退。ヤクルトスワローズは前年4位から1つ順位を落とし5位でした。

そして1989年は、新たにまたまた!35歳の「現役大リーガー」ラリー・パリッシュをヤクルトは獲得。

パリッシュは期待に応え42本塁打放ち本塁打王に輝きました(打率.268)。

が、シーズンオフに関根潤三監督に代わった野村克也監督は、三振と併殺打の多いパリッシュを嫌い、本塁打王なのに1年で球団は解雇という、ある種の珍事が起きました。



 

祝!健大高崎。群馬県勢初選抜優勝!なれど、東京の野球強豪校はこれで良いのか?


 



第96回選抜高校野球大会は、群馬県健大高崎が兵庫の報徳学園に1点差で勝って優勝!

初めて選抜で群馬県が優勝しました。

まぁ〜在校生、OBの方には失礼なれど、健大=高崎健康福祉大学を知ってる人が日本でどれだけいるか?

 

でも、これで校名は全国区になったと言えるでしょう。

例えば東海大相模が初めて甲子園に登場した時、『東海 大相撲』と間違って読んだ人は日本で多かったと思います。それほど当時の東海大学は、それほど全国で知られた学校ではなかったので、それと同じ。

というわけで、高校野球で校名を売る、売りたいというのは大学附属や新興私立学校にはよくある話で、別に悪い事ではないし、生徒の越境入学も自分の才能ですから全然OK!


でも、東京者としては健大高崎のベンチ入り20名のうち6名が東京の中学出身なのは、やはり気になります。昨春優勝校の山梨学院のエースとファーストも東京の中学出身者でしたし。

今年の大阪桐蔭のエースも東京は中野の中学出身ですし、ベスト4の千葉の中央学院もエースとキャッチャー含めベンチ入り20名のうち9名も東京の中学出身です。

繰り返しますが自分の才能、自分の人生ですから越境は良いのです。東京の野球名門校も越境の子だらけですし、古くは横浜の松坂大輔氏も東京の子だし、早実斎藤佑樹氏も群馬の子でしたし。

ただ、何故に?東京の野球強豪校を東京の子が避けるのか?これがちょいと気になる。

何故なら東京代表は、夏は2011年に優勝した日大三が決勝進出は最後で、春もその前年の同じく日大三の準優勝以来、決勝進出がないからです(優勝は1992年の帝京が最後)。

東京者としては、そろそろ強い東京代表復活を期待したいのです。野球強豪校の関係各位、争奪戦に負けないで!


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兵庫の報徳学園以外、石川、群馬、千葉全て選抜は初優勝!


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2024年選抜高校野球も、今日は準決勝。石川=星稜、群馬=健大高崎、千葉=中央学院、兵庫=報徳学園の4校が残ってます。

東京・関東、東日本の人間としては2022年夏=仙台育英、2023年春=山梨学院、2023年夏=慶應に続いて4季連続で東日本代表校が優勝してもらいたいので、普通に健大高崎中央学院を応援します。

しかし、報徳学園は昨春の決勝で山梨学院に敗れ準優勝するも、夏は兵庫県大会5回戦で敗退の屈辱があるので、今度こそは!と気合十分でしょう。

また、星稜は昨秋の石川県大会優勝、続く北信越大会も優勝。更には明治神宮大会にも優勝の全国制覇を秋に果たしており、一冬超えた選抜でも勝ち続ける常勝チームです。



4チームで春夏優勝経験のあるのは春2回夏1回の報徳学園だけで、星稜は夏に2回準優勝がありますが春の準決勝進出は初めてで、健大高崎は2度目の準決勝進出(共に春)、そして中央学院は春夏で初。

そして石川県代表が春夏甲子園大会で優勝したことは過去にありません。星稜の夏2回準優勝が最高なので、星稜が優勝すると春夏初めての石川県勢の優勝になります。

群馬県勢は近年では2013年夏に前橋育英が優勝してますし、1999年に桐生第一も夏に優勝していますが、春の優勝はなく健大高崎が決勝進出すると1955年の桐生以来。

千葉県勢も直近では2019年夏に習志野が準優勝してますし、夏は同じく習志野銚子商が優勝してますが、春は意外にも優勝経験がありません。

なので報徳学園以外の3校が優勝すると、全て県勢初の選抜優勝という事になります。