清宮幸太郎氏卒業以降、甲子園出場のない早実

 


2023年現在、早稲田実業早実は春21回、夏29回の甲子園出場を数え、春夏各々優勝1回、準優勝1回の、高校野球ファンなら知らない人はいない野球強豪校です。

が、夏は2015年、春は2017年を最後に甲子園から遠ざかっています。

現在、日本ハムファイターズ清宮幸太郎氏が早実1年夏(ベスト4)、3年春がそれで、彼が卒業後、早実は春夏共に甲子園出場はありません。

夏の西東京大会では、清宮幸太郎氏3年最後に決勝進出しましたが、2年前に決勝でやぶった東海大菅生にやぶれ、それ以来決勝進出はなく、最高は2019年、2022年、2023年の準々決勝敗退。

春の選抜の重要参考大会の秋季大会も、2018年、2023年に準決勝進出してますが共にここで敗退しており、決勝進出はありません。



とは言え、夏の西東京大会は準々決勝、秋の東京大会では準決勝と、東京の強豪校対決になるまでは勝ち上がっているので、突然!早実が弱くなったわけではないようです。

2017年、清宮幸太郎氏3年最後の夏の決勝で負けた東海大菅生は、この年全国ベスト4まで勝ち上がっており、以降、西東京はその東海大菅生日大三國學院久我山の3校が交代で夏は出場。

でも過去に、早実は最長で1963年春の選抜を最後に、1975年の夏の大会に出場するまで12年間、甲子園から遠ざかっていた時期があります。

そう思うと2017年の春の選抜が最後ですから、2024年春でまだ7年。

高校野球にありがちですが、超高校級選手が一人、二人いると、その子に引っ張られ甲子園に出る事は多いので、そういう子が早実に現れるのを期待したいと思います。


   

二松学舎は初の決勝進出から、夏の甲子園初出場まで43年かかった!

 


今や東京の野球強豪校の1つと数えられる二松学舎が、春夏合わせて初めて甲子園に出場したのは1980年の選抜大会。

秋の東京都大会初優勝の二松学舎が初出場なら、準優勝の帝京もまだ春2回目の出場で、共に夏の選手権出場はまだありませんでした(帝京は見事に選抜準優勝)。

そんな二松学舎は夏の東京都大会で、初めて決勝進出したのは1971年と、選抜初出場の9年前でしたが、日大一の前に2対12で敗退。

今のような東京が東西2校の出場枠になった初年度、1974年にも二松学舎は東東京大会で再び決勝進出しますが、後に広島東洋カープ等で大活躍する高橋慶彦投手擁する城西に、2対5で敗退しています。

この時まで、城西も二松学舎も共に春夏通じて甲子園出場はなく、城西が二松学舎より先に夏の甲子園に初出場しました。

そして二松学舎初の甲子園出場になった1980年の選抜後、春夏連続出場を目指した夏の東東京大会も、決勝戦早実に4対10でやぶれ、三度!二松学舎夏の甲子園出場を決勝で逃しています。



更に!その2年後、秋季大会決勝で早実荒木大輔投手)に敗れ準優勝なれど選抜され二度目の春の選抜出場し、見事に準優勝に輝き二松学舎の名を全国に知らしめた1982年。

 

しかしその夏も、4回戦で都立足立に1対4で敗れる大番狂せを演じてしまい、夏の甲子園にまだ届きません。

ちなみに、この年の二松学舎の春夏のエースだったのが、2023年現在、二松学舎の監督をつとめている市原勝人氏。

そしてここから二松学舎は夏は勿論、春の選抜も3度目の出場になるのは2002年と、20年も甲子園出場にブランクが空いてしまう、低迷期がありました。

 

2001年の秋季大会で20年ぶりに決勝進出した二松学舎は、決勝で日大三に敗れますが選抜されました。が、その間1984年、1992年、1990年と3度夏の東東京大会は決勝で敗れています。

そして春の選抜に出場した2002年夏も決勝で帝京に敗れ、またしても夏の甲子園出場ならず。春夏連続出場を逃しました。

 

更には翌2003年も二松学舎は、都立雪谷に決勝で敗れ、同年秋の東京大会に二度目の優勝を飾り4度目の選抜出場になった2004年の夏も、また!決勝で修徳に負け春夏連続出場ならず。

 

夏は3年連続で決勝で敗退ですから、これは当時の野球部部員もOBも、学校関係者も、みんな本当に悔しかったでしょうね〜。

その後再び二松学舎は低迷し、2013年に久々に夏の大会で決勝進出しますが、またしても修徳に敗れ甲子園出場ならず。

その翌年、2014年に決勝で帝京をやぶり、悲願の!夏の甲子園初出場を二松学舎は決めますが、思えば1971年に初めて決勝進出するも、日大一に敗れてから43年かかって!夏の甲子園の初出場!

今や東京の野球強豪校の1つに数えられる、2023年現在、春7回・夏5回出場の二松学舎も、夏の甲子園初出場までは苦難の道のりだったと言えます。

最後になりますが、二松学舎や関東一と同じ東京では野球新興校に数えられる帝京は、夏は2011年、春は2010年以降甲子園出場はなく、夏はその間、決勝で一度、準決勝で二度、二松学舎に敗れています。




 

都立高校が春夏甲子園に出場したのは5回、4校!(2023年現在)


 



甲子園を目指す私学の野球強豪校ひしめく東京で、2023年現在、春夏通じて都立高校は5回甲子園に出場しています。

直近では2014年の春の選抜の『21世紀枠』で選抜された、品川区にある都立小山台。前年の秋季東京大会でベスト8進出が評価されたようですが、結果は一回戦で準優勝した大阪の履正社に0対11で敗退。

とはいえ、夏の大会も都立小山台は1回戦から登場でしたが、5回戦まで見事に勝ち上がり東東京大会準々決勝進出。なので決して弱いチームではなかったと言えます。

が、やはり準々決勝で全国レベル、春夏甲子園優勝経験のある私学の雄!帝京に0対10で敗退。

勝った帝京は選抜東京代表の関東一にも4対12で勝ちましたが、決勝で二松学舎に4対5で敗れ甲子園出場を逸しており、東西共に甲子園を狙う私学がひしめく東京都大会は、準々決勝以降は毎年熾烈です。

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というわけで、東西夏の大会と違い秋の東京都大会を制した(或いは準優勝)都立高はないので、選抜甲子園出場校はこの都立小山台の『21世紀枠』の1回だけ。

 

一方夏の直近は、2003年の大田区にある都立雪谷。もう20年以上も前の話になってしまいました。


そんな都立雪谷もノーシードで2回戦から登場し、あれよあれよで東東京大会を勝ち上がったチーム。

決勝の二松学舎戦は8回を終わり0対0。9回表に都立雪谷が一挙5点を奪い5対0で二松学舎をくだし甲子園初出場を決めました。

が、都立雪谷の甲子園での全国大会一回戦も、春夏優勝経験ある大阪の野球強豪校!PL学園に1対13で敗れています。



そして都立高では唯一!二度夏の甲子園に出場しているのが、2001年と1999年に東東京大会を制した、江東区にある都立城東。

都立城東が初出場を決めた1999年は、3回戦からの登場で6回勝って優勝しており、準決勝では8対7であの!早実を1点差でくだし、決勝で駒大高を3対0の完封して初の甲子園出場を決めました。

更にその2年後の2001年にも、都立城東は1回戦から勝ち上がり、甲子園準優勝経験ある二松学舎と関東一、甲子園優勝経験のある岩倉等の強豪校をやぶり、8回勝って二度目の甲子園出場を決めています。

しかし都立城東も甲子園では、1999年は一回戦で和歌山の強豪校!智弁和歌山に2対5、2001年も一回戦で佐賀の神崎に2対4で敗れており、都立高校にとって全国の壁は厚いと痛感いたします。

そして都立高校が初めて甲子園出場を決めた、1980年の西東京大会の国立市にある都立国立も、1回戦から8試合戦い甲子園出場を決めています(準々決勝の佼成学園戦は、引き分け再試合で2試合)。

準決勝では甲子園で準優勝経験ある堀越を2対0、決勝の駒大高も2対0の連続シャットアウトで、当時は都立高校で初めて都立国立は甲子園出場を決めています(東東京代表が、1年生の荒木大輔投手の早実)。

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その都立国立も、1回戦で優勝候補で、春夏甲子園優勝経験ある和歌山の箕島に0対5で敗れており、2023年現在、都立高校は春夏共にまだ甲子園で勝利をあげたことはありません。

しかし、それを言っちゃーお終いよですが、私学の野球強豪校は学校を挙げ野球部のバックアップをしてますので、中学生どころか小学生から有望選手は青田刈り状態なのは有名な話です。

 

普通、地元の高校以外、よほどの進学校でない限り、他県の高校など名前すら知らないわけですが、甲子園に出場するとNHKが全試合放映し新聞も毎試合デカデカと試合結果を報じます。

 

ですから、高校野球進学校でもない地方の学校の名前を知る人はとても多いわけで、私学にとって高校野球ほど名前を売れるそれは他にないと言えます。

なので、OBの伝手含め特待生枠や、卒業後の有名大学への進学枠、一流企業就職の社会人枠など、それぞれ高校別に特色があると思いますが、あの手この手で越境入学含め有望選手の青田刈りは熾烈!

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都立高校の野球部の子たちは、その青田刈りに引っ掛からなかった野球好きな子か?親子ともどもそういうシステムが嫌な家庭の子なわけで、都立高校の野球部は夕方からの普通のクラブ活動です。

だから私学の、他県から越境入学してる子も含め、東京の朝から晩まで野球漬けの野球エリート=特待生達は、そんな都立高校に意地でも負けるわけにはいかない。

 

でも、そんな私学の雄の子達が、普通のクラブ活動の都立高校の野球自慢の子達に負けることもあるから、高校野球は本当に面白い。

最後になりますが、都立国立に決勝で敗れた駒大高は、1995年まで西東京枠で出場しており、1996年から東東京大会枠に移ってから、1999年には都立城東に決勝で敗れてます。

この年の選抜に駒大高は初出場していたので(2回戦敗退)、春夏連続出場を都立城東に拒まれた事になるので、駒大高ナインは悔しかったでしょうね〜。

ちなみに駒大高が夏の都大会で決勝進出したのは、2023年現在、この共に都立校にやぶれた二度だけです。

 



1980年春の選抜は帝京、夏は早実の東京勢が準優勝だった!


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帝京の伊東昭光投手が1年だった1979年夏、城西が後の広島カープ高橋慶彦投手を擁し初出場以来の、5年ぶり二度目の優勝を果たし甲子園に出場。

城西は準々決勝まで勝ち上がるも、優勝した箕島に敗れベスト8で敗退。それでも当時、城西は東京の私学の野球新興校の中では、帝京や二松学舎、関東第一より早く全国で名を馳せました。

一方、帝京はまだ夏の甲子園出場はなく(選抜は1度出場。1回戦負け)、この夏の東東京大会も4回戦敗退(とんねるず石橋貴明氏が補欠選手だった)。

新チームになった秋季東京大会で、帝京の1年生エースの伊東昭光投手は好調で、日大二桜美林、そして昨年の夏の決勝で逆転で敗れた早実を撃破し決勝進出。二度目の春の選抜出場に近づきました。



勝戦は、こちらもまだ春夏甲子園出場のなかった二松学舎に9回裏逆転負けしましたが(1対2)、見事に東京No.2で、優勝した二松学舎(春夏甲子園初出場と共に選抜出場を決めています。

が、選抜大会は東京No.1の二松学舎は一回戦で福岡の柳川の前に敗退(1対3)。No.2の帝京は大阪の強豪!北陽相手に2対0の完封シャットアウト勝ちと、真逆のスタートになりました。

帝京の二回戦の相手は、一回戦で京都の強豪!平安をやぶった、こちらも強敵の埼玉の上尾でしたが、帝京は3対2で勝って準々決勝進出。初の全国ベスト8に進出。


そして準々決勝で秋田の秋田商を再び2対0の完封シャットアウト勝ちした帝京は、準決勝も香川の丸亀商相手に延長12回、2対1のサヨナラ勝ちでなんと決勝進出!

決勝の相手は、春は2年連続10回目の出場の高知の名門!高知商。後の阪神タイガース中西清起投手と、ヤクルトスワローズ伊東昭光投手の、好投手同士の対戦になりました。

結果、試合は0対0のまま延長戦に突入。10回裏に高知商が1点を奪いサヨナラ勝ち。それでも全国的に無名だった帝京は、この選抜準優勝で校名を一気に全国区にしたと思います。

当然1980年、夏の甲子園を目指す東東京大会の優勝候補は選抜準優勝の帝京。

帝京のエースの伊東昭光投手と同じく、昨秋の東京大会準決勝で2対1で辛勝した早実にも芳賀誠投手という好投手がおり、この2チームに二松学舎の優勝争いでした。



ところが!有名な話ですが早実の芳賀誠投手は大会前に怪我をしてしまい、抜擢されたのが1年生の荒木大輔投手。

帝京、早実二松学舎は予想通り準決勝まで勝ち上がり、二松学舎がまず昨夏帝京が敗れた攻玉社に勝ち、選抜準優勝の帝京と1年坊主の荒木大輔投手の早実の対戦は、大方は帝京が勝つと思いました。

が、しかし、早実は初回に1点を挙げ、試合はそのまま両投手の投げ合いになり8回を終わって1対0で早実リードの予想外の展開になり、9回表に伊東昭光投手が早実打線につかまり3点を献上。

これにて選抜準優勝の帝京は万事休す。結局、1年坊主の荒木大輔投手は帝京相手に3安打完封勝ち。4対0で早実が帝京をやぶる番狂せでした。

で、2年前の決勝も同カードで、6回まで帝京は10対4の勝ち試合を7回に5点取られ1点差、8回にも4点取られ10対13と早実にひっくり返され逆転負けしており、1975年も準決勝で帝京は早実の前に敗退。

当時の野球新興校だった帝京は、夏初出場のチャンスを三度!古豪名門の早実に拒まれていました。

1年坊主の荒木大輔投手の早実、決勝も選抜出場校、昨秋の東京大会優勝校の二松学舎をくだし見事に優勝。2年ぶり23回目の夏の甲子園大会出場!

あとは伝説になってる大旋風で、この後2年、日本全国「大ちゃんブーム」が巻き起こった事もあり、荒木大輔投手に勝った横浜の愛甲猛投手、報徳学園金村義明投手、池田の畠山準投手は皆ドラフト1位。


お三方とも夏の大会優勝校、優勝投手という事もありますが、1980年の春の選抜優勝投手の高知商中西清起投手、帝京の準優勝投手の伊東昭光投手が、夏の荒木大輔投手登場によって影が薄くなっちゃった。

中西清起投手は高卒時はドラフト指名されず、社会人のリッカーに入団。2歳年下の高卒ドラフト1位入団の荒木大輔投手の翌1983年のドラフトで、阪神タイガースに1位指名されました。

伊東昭光投手も高卒時はドラフト指名されず、社会人の本田技研に入団。1984年のロサンゼルスオリンピックにエースピッチャーとして選ばれ、日本の金メダル獲得に貢献。正に人に歴史ありですね〜。

そんな伊東昭光投手は、1985年のドラフト1位でヤクルトに入団しており、1歳年下で既にプロ入りしていた荒木大輔投手とチームメイトになっています。

高校時代から東京で知ってる同士で、入団は年下でも荒木大輔投手の方が先。荒木大輔投手は伊東昭光投手を「伊東さん」と呼んでたのでしょうか?それとも「伊東」だったのか?

伊東昭光投手も「荒木さん」だったのか?、それとも「荒木」、はたまた「大輔」だったのか?謎。


 

かつて日本の女子マラソンは、ケニア勢より強かった!



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ラソン15回で10回優勝、2位1回の驚異的な成績を残した、おそらく日本の男子マラソンランナー最強だったと思う瀬古利彦氏ですが、2度のオリンピックは14位(自己ワースト)と9位と不本意でした。

一方、女子マラソン史上最強ランナーはどちらか?と思う、11戦7勝2位1回の高橋尚子さん、10戦5勝2位1回の野口みずきさんは、共にオリンピックで金メダルを獲得しています。

今や男女とも、マラソンケニアエチオピア勢のタイムが抜けており日本人は敵いませんが、高橋尚子さん優勝の3位のジョイス・チェプチュンバも、4位のエスタ・ワンジロもケニア代表。

野口みずきさん優勝のアテネオリンピック2位も、ケニア代表のキャサリン・ヌデレバ。当時はケニアのすごいランナーと日本人ランナーが勝負をして勝ってたなんて、今は夢のようです。


高橋尚子さんは、その後も翌年のベルリンマラソンで当時の世界新記録を更新し優勝。2002年の同大会でも優勝し、マラソン6連勝の無敵ぶりでした。

そんな高橋尚子さんの優勝確実、アトランタオリンピックも連続出場確実と思われた2003年の東京マラソンも、途中から高橋尚子さんは飛び出し独走体制に入りますが、30キロ地点で突如失速!

私的にはロサンゼルスオリンピックの、よもやの!35キロ地点での瀬古利彦氏の失速と同じぐらい驚いた、マラソンて怖いなーと感じた瞬間でした。

失速した高橋尚子さんは、大きく引き離した筈のエチオピアのエルフェネッシュ・アレムに39キロ地点で遂に抜かれ、結果は2位でしたがタイムは平凡。というか悪かった。


結局、アテネオリンピック代表から高橋尚子さんは漏れてしまい、これは当時かなりの物議になりましたが、代表の野口みずきさんが優勝、土佐礼子さんが5位、坂本直子さんが7位と全員が入賞。

この結果で高橋尚子さんが選考から漏れたのは、他の3人が強いんだからしょうがなかったと納得させた3代表はご立派だったと思いますし、当時の日本の女子マラソン選手は皆ハイレベルでした。

ちなみに、オリンピック女子マラソンで全員入賞は2023年現在、このアテネだけで他にはありません。

一方、日本の女子マラソンオリンピック2連覇を成し遂げた野口みずきさんも、この後も2連続優勝し、ここまでマラゾン6回で5度優勝2位1回。当然!次の北京オリンピックも代表に選ばれました。

ところが大会前に肉離れを起こしてしまい出場を辞退。土佐礼子さんも途中棄権で、完走した中村友梨香さんは13位と、女子マラソンがオリンピックでメダルを獲得できなかったのは20年ぶり。

結局、北京オリンピック欠場までは、おそらく史上最強だった野口みずきさんは、その後優勝することはなく、高橋尚子さん同様、オリンピックマラソンは1度だけの出場でした。

というわけで、当時の日本の女子マラソンアテネまでは強かったのですが、この前の東京オリンピックでの一山麻緒さん8位入賞は、そのアテネの全員入賞以来の快挙で、女子マラソンは低迷していました。



⭕️女子マラソン オリンピック歴代入賞者

1992年 バルセロナ
2位 有森裕子
4位 山下佐知子

1996年 アトランタ
3位 有森裕子

2000年 シドニー
1位 高橋尚子
7位 山口衛里

2004年 アテネ
1位 野口みずき
5位 土佐礼子
7位 坂本直子

2020年 東京(開催は2021年)
8位 一山麻緒



最後になりますが、、、

2000年のシドニーオリンピックで、高橋尚子さんに8秒差2位のルーマニアリディア・シモンは、その4年前の有森裕子さんが前回の2位に次いで3位、銅メダルのアトランタオリンピックも走っていて9位。

2004年の野口みずきさんが優勝したアテネオリンピックにも、リディア・シモンは参加しており(途中危険)、2008年の北京オリンピックにも参加し8位と、なんと4回オリンピックで走っています。

アテネオリンピック野口みずきさんの2着だったキャサリン・ヌデレバも、2008年の北京オリンピックも参加し連続2位。銀メダルに輝きました。

なので、この辺は金メダルのプレッシャーなのか?オリンピックに連続出場できなかった高橋尚子さん、野口みずきさんはちょっと惜しまれます。


 

巨人の星 オズマのカージナルス来日の1968年は、20球団制MLB最後の年だった!

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日本の誉れ!大谷翔平氏が活躍するMLBは2023年現在、カナダの1チーム含め30球団あります。

が、漫画「巨人の星」のオズマでお馴染みセントルイス・カージナルス来日時の1968年は、アメリカンリーグナショナルリーグ各々10チームの20チームしかありませんでした。


結果、カージナルスが来日した1968年が、MLB20球団制の最後の年になり、1969年より球団が増え現在のようなシステムになっています。

というわけで1968年のワールドシリーズは、アメリカンリーグ10球団の優勝チームはデトロイト・タイガースで、ナショナルリーリーグ10球団の優勝チームが、オズマのセントルイス・カージナルス



日米親善試合、当時のプライド高き大リーガー(と、当時は呼んでいた)にしたら観光旅行ついでの試合感覚だったでしょうが、カージナルスナショナルリーグの覇者!

ワールドシリーズこそ先に3勝1敗で王手をかけながら、そこからタイガースに3連敗し優勝を逃しましたが、あの時のカージナルスのレギュラーは、錚々たる!大リーガーの中の大リーガーたちでした。

繰り返しますがワールドシリーズ優勝を逃したとはいえ、ナショナルリーグチャンピオンのカージナルスにとって、日本との親善野球など、相当!軽く考えての来日だったでしょう。

が、しかし、いきなり第一戦で22勝9敗、防御率1.12、268奪三振最優秀防御率最多奪三振を獲得したエースのボブ・ギブソンがナイスピッチングといかず、読売ジャイアンツ戦に9対8の辛勝。

第二戦に早くも同じ読売ジャイアンツ相手に、2対3のサヨナラ負けをくらい、更に!第三戦の全日本戦では日本の5人の投手に完封シャットアウト負け(0対6)。

 

ここまでカージナルスは、1勝2敗と負け越していました。


流石に旅行気分だったカージナルスも、誇り高い大リーガーですからこれはヤバいと思ったでしょう。第4~7戦は4連勝。

が、再び第8戦の全日本で、この前も打てなかった阪神江夏豊投手と、南海ホークス村上雅則投手に再び完封シャットアウトをくらい0対3で負け3敗目。

結果的にカージナルスは13勝5敗と、なんとか面目を保ちましたが、当時の若き江夏豊投手はナショナルリーグ優勝チームの大リーガー相手に、2勝を挙げました。

というわけで翌1969年から4球団が増え、両リーグ東地区、西地区の6球団の24球団制のMLBがスタート。

 

この流れでMLBの球団は増え続け、2023年現在は両リーグ東地区、中地区、西地区の各5球団、総勢30球団になっています。


     

異色のザ・ビートルズ映画!「愛しのフリーダ」は、なかなかの佳作です♪

 

2013年の映画「愛しのフリーダ」は、地味でお金のかかってない作品だけど、とても良い映画でした♪

公式デビュー前の、有名なキャバーンクラブに出演してた頃からのザ・ビートルズファンで、バンドが解散した後までザ・ビートルズファンクラブの代表だったフリーダ・ケリー。

「愛しのフリーダ」は彼女のドキュメンタリーで、とてもほのぼのとして暖かい気持ちにさせられた映画でした。

私的に、ザ・ビートルズのサクセスストーリーの部分が好きです。

最近はジョン・レノンと言うとネットでもヨーコさんとの写真やエピソードばかりだし、アルバム「サージェント〜」の称賛もとっくの昔に飽きてるので、それらがほぼゼロだったのも嬉しい映画(笑)。

本当にその手の話は飽き飽きしてる。

やはり公式デビュー前から、初めて「ラブミードゥ」がチャートインした時の喜びや、まさかあんな大ごとにザ・ビートルズがなるなんて思わなかったという、極めて!まともな感想。

この普通のリバプールの女の子だった、フリーダ・ケリーの生の声はとても良いですね〜♪

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ザ・ビートルズの何が凄かったかって、普通にレコードがヒットしただけではなく、あの熱狂的なムーブメント、、、

最初はリバプール、そしてイギリス全土、更にはアメリカ、そして世界と、女の子達が半狂乱の嬌声を挙げ、ザ・ビートルズを圧倒的に支持したそれでした。

当初のアイドル的ムーブメントを抜きにして、ザ・ビートルズの成功は語れない。

しかも彼等は自分たちで曲を作り歌い演奏する音楽家でもあったという、解散から半世紀もたってるのに今も色褪せない、素晴らしい楽曲・サウンド・歌声を世界に届けたその凄み。

更にはザ・ビートルズのメンバーの家族とフリーダ・ケリーの話は、他でも聞けない話、見れないショットなので、とても楽しめました。

また、面白いのがフリーダ・ケリーのパパの、当時のイギリスの昔ながらの頑固爺ぶりが面白いです。

決して可愛い我が子、娘がザ・ビートルズ関連の仕事をすることを良しとしていなかった事実現実も、(そうだよね。ザ・ビートルズ登場以前の大人は、これが普通だった)と納得!

今やザ・ビートルズは音楽の教科書にも載り、文科省ご推薦のバンドになってますが、元々は当時の「大人の敵」。

当時の大人の常識と、かけ離れた「とんでもない奴等」だったわけす。

それでもそんなザ・ビートルズを応援し続けたフリーダ・ケリーやリヴァプールのファンの女の子のエピソード、そういうのが私は好きなので、とても楽しめました。

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後半も、ありがちな「サージェント〜」には全く触れてないのが良いです(笑)。

親分のブライアン・エプスタインの突然の死と、メンバーがバラバラにならないようにと、ポール・マッカートニーが主導権をとり「マジカルミステリーツアー」を撮ったのが、終わりの始まり。

と、フリーダ・ケリーが感じたのは、身近にいた人の率直の感想っぽくて、これがとても良かった。

本当に「マジカルミステリーツアー」が当時、どれだけ顰蹙をかったことか。ザ・ビートルズのやった仕事が、初めて公に大否定・批判されたのは「マジカルミステリーツアー」。

そして、立ち上げたアップルも思うようにはうまくいかず、そして富も名声も既に手にしたメンバー達の、心がバンドから離れていったさま、シンプルですが、とてもうまく描かれていると思いました。

「マジカルミステリーツアー」の大勢の「わけわからない人達」の一人に、フリーダ・ケリーもいたので、ご本人も思い出深い仕事なのかもしれないですが、それで良いのです!

ザ・ビートルズの身近にいた人の、思い出深いエピソードなら、なんでも素敵ですから♪

繰り返しますが「 サージェント〜」の賞賛と、ジョン・レノンとヨーコさんの話で、目新しいものなど、ここ20~30年何もないからね(笑)。

同じ話をまた聞きの九官鳥のオウム返しで、わけ知り顔で聞かされるのは、とっくに飽きてるので、本当に「愛しのフリーダ」は良い映画でした♪


何にしても!あの!ザ・ビートルズと一緒に、17才からずーっと仕事してた女性というだけで、素晴らしい!素敵な!羨ましい!人生と思ってしまいます。