刑事コロンボで3回犯人を演じたジャック・キャシディの倅、70年代のアイドル、デヴィッド・キャシディは2017年に他界していた、、、

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2017年11月に、67才でこの世を去った70年代のアメリカのアイドル、デヴィッド・キャシディ

まぁ〜この方、アメリカと違い日本ではヒットシングルはなかったですが、見ての通りのルックス。

ちょっとは女の子に人気がありました。

が、ありがちですがデヴィッド・キャシディは、結婚離婚の繰り返し人生後、晩年はアル中、自己破産、認知症と散々でした。

そして、彼のパパのジャック・キャシディの人生も凄くてねー、、、。

ジャック・キャシディは1970年代の名作、「刑事コロンボ」シリーズで三度犯人役をやってる、コロンボファンには有名な役者でした。

が、その3度目の犯人役のコロンボシリーズ、↓「魔術師の幻想」のアメリカ放映当日、1976年に自身の寝タバコが原因の火災で、自宅で焼死。

49才の生涯を閉じてるんですねー。
 

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ちなみにジャック・キャシディ、犯人2作目の「第三の終章」で出版社の秘書役やってた、人妻熟女好きのボクは眼がいった女優、マリエット・ハートレイ、、、。

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で、このマリエット・ハートレイ、、、
 
リアルタイム当時は、3作目4作目は劇場公開されてなかったようで、1980年代になってから、レンタルビデオで観た、1972年の「荒野の七人」の4作目。

なんと!あの!クリスが(1作目2作目はユル・ブリンナー、3作目はジョージ・ケネディ、4作目はリー・ヴァン・クリーフ)、結婚して保安官になってる、ちょいとシリーズの中では風変わりな設定だった、「荒野の七人・真昼の決闘」にも出演されてましたねー↓。

 
マリエット・ハートレイは、クリスのその惨殺されちゃう「美しい妻」役でしたので、「荒野の七人」ファンは、三代目とは言え、あの!クリスの女房役をやった方なので、ちょいと注目ですね。

ザ・シュープリームスも、1960年代を全力で駆け抜けていったレジェンドだね〜♪

 
 
ザ・シュープリームスの結成は、人気のエルビス・プレスリー徴兵の翌年、アメリカのR&Rブームの終焉期だった1959年とかなり古く、ダイアナ・ロスは結成当時15歳。
 

メンバーはダイアナ・ロス、メアリー・ウィルソン、フローレンス・バラード、そしてベティ・マグロウンの4人でしたが、ベディはすぐバーバラ・マーティンに替わりました。

画像↑の真ん中が、グループを結成した当初はフロントだったフローレンス・バラードで、地元デトロイトの人気男性グループ、プライムスの妹グループのメンバーにならないかと、最初にスカウトされたのも彼女でした。

フローレンス・バラードとメアリー・ウィルソンは友達で、お互いがスカウトされたら必ずお互いを誘うと約束しており、フローレンス・バラードは約束を守りメアリー・ウィルソンを誘っています。

そして二人の近所に引っ越してきた知り合いの女の子、ダイアナ・ロスを誘い、のちのザ・シュープリームスのメンバーがそこで結集。

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何事もそう感じますが、モータウンを発足させばかりのベリー・ゴーディ・Jr.とザ・シュープリームスの運命的な出会いも、歴史の「必然」を感じます。

ベリー・ゴーディ・Jr.は、グループ名をプライメッツからザ・シュープリームスと改名することを条件にデビューさせますが、なかなかヒット曲に恵まませんでした。

そして、1962年にはバーバラ・マーティンが妊娠を理由に脱退し、グループは3人組になっています。

そしてベリー・ゴーディ・Jr.は、歌唱力抜群のフローレンス・バラードではなく、ダイアナ・ロスをフロントにすることを決断。その方が売れると「感じた」のでしょう。

このへんの諸々のグループ内の葛藤は、彼女等をモデルにした映画「ドリームガールズ」を観た方ならお馴染みですが、フローレンス・バラードの胸中が穏やかなわけがないですね。

結局、ダイアナ・ロスをフロントにしグループの「顔」にしたベリー・ゴーディ・Jr.の戦略は当たり、ザ・シュープリームスはヒット曲を連発したわけです。

そしてこれも、もう一つの歴史の「必然」と感じる、3人ともミシガン州デトロイト出身で、モータウンがソングライター・プロデューサーとして雇ったエディ・ホーランド・ジュニア、ブライアン・ホーランド、ラモント・ドジャー。

この3人のチームを『ホーランド=ドジャー=ホーランド』と称しますが、このチームが作った楽曲がザ・シュープリームスの、いや、ダイアナ・ロスの声に見事にハマったんですね。

まぁ〜このへんは映画「ドリームガールズ」でも描かれてますが、ベリー・ゴーディ・Jr.は黒人層だけでなく「お金を持ってる」白人層をターゲットに、全米チャートのトップを狙い全米放映のテレビにも、ザ・シュープリームスを出演させます。

当時、黒人シンガー、グループは同じ黒人層にだけ売れればいいという考えが一般的で、更に白人層は黒人のやってるR&R、R&B、後にブルースを模倣して、同じ白人層相手に商売をする。

そんな肌の色の違いの商売が当たり前だったようですから、ベリー・ゴーディ・Jr.の黒い肌のグループを、白人層にも受け入れさせるという戦略は、かなり画期的であり、挑戦だったとも言えます。

勿論、そのためには白人プロデューサーや白人DJにベリー・ゴーディ・Jr.は賄賂を渡していたようで、それも映画「ドリームガールズ」に描かれていました。まぁ〜いつの時代も「世の中銭ズラ」。

で、ベリー・ゴーディ・Jr.の営業戦略、ダイアナ・ロスの声とルックス、そして『ホーランド=ドジャー=ホーランド』が作る軽快でポップな楽曲のマッチングは見事成功!

まずは「愛はどこへ行ったの」が1964年夏、全米1位を獲得し、ザ・シュープリームスは遂に!大成功を収めました。

その後も「ベイビーラブ」「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラブ」「恋はあせらず」等々、今やダイアナ・ロスの声以外は想像がつかない、『ホーランド=ドジャー=ホーランド』の作品が軒並みヒット!

ちなみに「愛はどこへ行ったの」は最初、既に「プリーズ・ミスター・ポストマン」で全米1位を獲得していた、同じく女性コーラスグループのマーヴェレッツに予定していた曲だったそうです。

が、マーヴェレッツのリード・シンガー、グラディス・ホートンが歌を気に入らず、これを拒否。

既にグラディス・ホートンのキーに合わせてバック演奏は録音していたので、ダイアナ・ロスはキーが合わず終始不機嫌なレコーディングだったそうですが、曲は見事に!大ヒットしました。

リアル「シュープリームス」物語は、映画「ドリーム・ガールズ」のようには、いかなかったです、、、

という具合に、ザ・シュープリームスは1960年代、アメリカで売れに売れます(当時の日本でR&B好きはコアでマニアックだったから、日本は例外で微妙)。

が、こちらも映画「ドリームガールズ」を観た人ならご承知の通り、国内外良くある話ですが、ダイアナ・ロスベリー・ゴーディ・Jr.とできていたので、一層!ダイアナ・ロスを売り出す事に尽力を注ぎます。

グループの元メインシンガーだったフローレンス・バラードは、色々思うところがあって当然でしょう。

フローレンス・バラードは、グループは売れても精神のバランスを崩してしまい、アルコールに依存するようになり、ダイアナ・ロスとの関係も悪化。

一方、ダイアナ・ロスの当時の心というのも難しいですよね〜。

元々3人は地元の友達でしたし、ダイアナ・ロスは後から加入していますから、最初は戸惑い、フローレンス・バラードとメアリー・ウィルソンに申し訳ないという気持ちもあったでしょう。

でも、自分がメインボーカルをとったら、ザ・シュープリームスは曲がガンガン売れて、いきなり全米の人気グループになっちゃった。若きダイアナ・ロスが天狗にならないわけがない。 

映画「ドリームガールズ」 で、ビヨンセが演じていた役と違い、ダイアナ・ロスもかなりエグい性格だったのは、ファンの間では有名です(笑)。

結局、アル中でトラブルメーカーのフローレンス・バラードは、グループの人気絶頂期に解雇されてしまいます(勿論、1960年代当時の日本でこんな事知ってる人はいなかった)。


新たにシンディ・バードソング↑(画像右)が加入し、グループ名もダイアナ・ロス&ザ・シュープリームスに改名。

一方、フローレンス・バラードはモータウンの運転手をやっていたトーマス・チャップマンと結婚し、彼を新しいマネージャーとして1968年にABCレーベルと契約を結び、ソロシンガーとして再デビューしました。

が、フローレンス・バラードがソロとして活動する時は、シュープリームスの事には言及しないという契約があったようで、元シュープリームスという看板を掲げてのプロモーションもままならず、思うようなヒットを出せない。

そしてトーマス・チャップマンとの間に3人の子供がいたフローレンス・バラードですが、3人目の子供を妊娠中にトーマスは彼女の元を去ってしまいます。

当然、フローレンス・バラードは売れないのですから、晩年は金銭面で厳しい生活だったようです。

そして1969年にはダイアナ・ロスもグループを離れソロになりますが、その後ダイアナ・ロスもまたベリー・ゴーディ・Jr.の子供が宿しています。

が、しかし、ダイアナ・ロスベリー・ゴーディ・Jr.と結婚せず、マネージャーのロバート・シルバースタインと結婚。子供は二人の子供として育てました(その後、離婚。彼女は別の男と再婚)。

このへんはなんか、松竹映画「蒲田行進曲」の小夏と銀ちゃんとヤスみたいですね(笑)。

そんなダイアナ・ロスが抜けた後、再びグループ名はザ・シュープリームスに戻り、メインシンガーにジーン・テレルが加入。とうとうオリジナルメンバーは、メアリー・ウィルソン一人になってしまいました。

ベリー・ゴーディ・Jr.もダイアナ・ロスのいないザ・シュープリームスに興味がなくなったのか、それまでのようなバックアップはなくなり、「ストーンド・ラブ」の小ヒットは出しましたが、ザ・シュープリームスは70年代になると勢いがなくなっていました。

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ちなみに「ドリームガールズ」でも描かれてますが、ベリー・ゴーディ・Jr.は、ひたすら!ポップなものを追い求め、1970年代初頭にはジャクソン5を大成功させてますが、これには理由があります。

ベリー・ゴーディ・Jr.は、モータウンを設立する前、ジャズのビバップ専門レコード店を開きましたが、あえなく閉店。

演奏家と一部のファン以外、その手の音楽は評価は高くても「金にならない」「商売にならない」のをベリー・ゴーディ・Jr.は、自らのレコード店閉店で体感してるんですね〜。

そんなジャクソン5も大成功しダイアナ・ロスもソロでブレイクしていた1976年、ザ・シュープリームスの元フロントのフローレンス・バラードは冠動脈血栓で急死。わずか32年の短い人生でした。

翌1977年には、唯一のオリジナルメンバーだったメアリー・ウィルソンが独立し、実質ザ・シュープリームスはこの時点で終わっています(他のメンバーでの、営業活動は続いているようですが)。

で、映画「ドリームガールズ」では、そこは何たってハッピーエンド好きのアメリカ映画ですから、美しいフィナーレでしたが、現実は厳しいもので、あれはフィクションです。

フローレンス・バラードは他界していますが、彼女の後任メンバーだったシンディ・バードソングとメアリー・ウィルソン、そしてダイアナ・ロスでのザ・シュープリームス再結成計画は、何度かあったそう。

でも、一説にはダイアナ・ロスとメアリー・ウィルソンの不仲、ダイアナ・ロスとのギャラのあまりの違いにメアリー・ウィルソンとシンディ・バードソングが再結成を固辞した等と伝わっており、これは実現しませんでした。

そして、2021年にメアリー・ウィルソンも76歳で他界。グループが有名になる前に脱退していたバーバラ・マーティンも2020年、76歳で亡くなっております。

ダイアナ・ロス独立後、メインシンガーとして参加したジーン・テレルは2021年8月現在75歳で存命ですが、オリジナルメンバー4人の中では同77歳、存命なのはダイアナ・ロス一人になってしまいました。

というわけで、ザ・シュープリームスザ・ビートルズと同じで再結成を果たさぬまま終わった、60年代のレジェンドグループです。

 

「レッキング・クルー」のハル・ブレインが叩いてるそうな、島倉千代子さんの「愛のさざなみ」、、、

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1929年生まれのハル・ブレインは、1948年にカリフォルニア州で音楽のプロの仕事を始めています。

サム・クック、ジャン&ディーンらのバックの仕事の後、三十路を超えた60年代初頭フィル・スペクターのセッション・メンバーとなり、ハル・ブレインは一流ドラマーの仲間入り。

とはいえ、ハル・ブレイン含む彼等古のアメリカンミュージックを支えた腕利きスタジオミュージシャン、通称「レッキング・クルー」が、一般どころか音楽業界でも知れ渡ったのはわりと最近の事です。

2016年に「レッキング・クルー」のメンバーでギタリストだったトミー・テデスコの息子、デニーが父が肺がんに侵されたことをきっかけにカメラを取り、数年に渡り父や関係者にインタビューを敢行。

そしてデニーが監督で「レッキング・クルー 〜伝説のミュージシャンたち〜」として映画化されたことで、日本は勿論、本国アメリカでもその存在が知られるようになりました。

以下、私が好きな曲だけピックアップしましたが、これだけハル・ブレインの叩くドラムで気持ち良くさせてもらってたのか〜と、しみじみしてしまいます♪

コニー・フランシスボーイ・ハント

エルヴィス・プレスリー 「好きにならずにいられない」

シェリー・フェブレー 「ジョニー・エンジェル」

カスケーズ 「悲しき雨音」

ボビー・ヴィー 「燃ゆる瞳」

✨ザ・ロネッツ 「ビー・マイ・ベイビー」

ジャン&ディーン 「サーフ・シティ」

ザ・ビーチ・ボーイズ 「サーファー・ガール」「ファン・ファン・ファン」「アイ・ゲット・アラウンド」「カリフォルニア・ガールズ」「バーバラ・アン」「素敵じゃないか」「スループ・ジョン・B」「神のみぞ知る」「グッド・ヴァイブレーション」

サイモン&ガーファンクル 「冬の散歩道」「アイ・アム・ア・ロック」「ミセス・ロビンソン」「ボクサー」「明日に架ける橋」「コンドルは飛んでいく」

バーズ 「ミスター・タンブリン・マン」

ママス&パパス 「夢のカリフォルニア」「マンデー・マンデー」

ザ・モンキーズ(楽曲、詳細不明)

フランク・シナトラ 「夜のストレンジャー

グラス・ルーツ「今日を生きよう」

ヘンリー・マンシーニ楽団「ロミオとジュリエット~愛のテーマ」

島倉千代子 「愛のさざなみ」

フィフス・ディメンション 「輝く星座/レット・ザ・サンシャイン・イン」

ダイアナ・ロスマホガニーのテーマ」

ザ・モンキーズが確たる資料が見つからないので、曲目はあえて書きませんでしたが、おそらくあれやこれやのヒット曲は、ハル・ブレインでしょう。

思うにザ・モンキーズは当時、スタジオミュージシャンを使ってるからインチキだ〜偽物だ〜と日本でも叩かれましたが、ではそのスタジオミュージャンて誰?を誰も研究しなかった。

嫉妬と僻みで、人気者を貶めるネガティブ情報にはすぐ飛びついて九官鳥のオウム返しを嬉々としてやるけど、その検証がないのは、今も昔も音楽に限らず日本ではよくある話です。

ザ・ビーチボーイズも、ある時からメンバーのブライアン・ウィルソンがライブツアーから外れ、自分で作った楽曲をスタジオミュージシャンを集め(それがレッキング・クルー)レコーディングしていたのは、ファンには有名です。

でも、これもかなり後になって大瀧詠一氏や山下達郎氏の研究と発言でわかったわけで、リアルタイム1960年代は誰も言わなかったし、研究もしてなかった。

というわけで、「レッキング・クルー」という名のスタジオミュージシャン達は以下の通り。

キーボード
アル・デロリー ラリー・ネクテル マイク・メルヴォイン ドン・ランディー ミシェル・ルビーニ リオン・ラッセ

ギター
デニス・ブディミール ジェイムス・バートン グレン・キャンベル アル・ケイシー デヴィッド・コーエン ジェリー・コール マイク・ディージー バーニー・ケッセル ルー・モレル ドン・ピーク ビル・ピットマン マック・レベナック(ドクター・ジョン) ハワード・ロバーツ ルイ・シェルトン ビリー・ストレンジ トミー・テデスコ

ウッド・ベース
チャック・バーゴファー ジミー・ボンド ライル・リッツ

エレキ・ベース
マックス・ベネット キャロル・ケイ ジョー・オズボーン レイ・ポールマン ボブ・ウエス

ドラムス
ハル・ブレイン フランク・キャップ ジム・ゴードン アール・パーマー

最後になりますが、日本の島倉千代子さんのグループサウンズブーム真っ盛りの1968年の名曲!「愛のさざなみ」 が、バックの演奏はLA録音でハル・ブレインなのには驚きました。

おそるべし!浜口庫之助氏とレコード会社! そして『島倉千代子』という名の格!

言われてみれば「愛のさざなみ」は、ハル・ブレインが叩いていたママス&パパスの「マンデー・マンデー」に、グルーヴが似てますね〜。

 

 

(こいつキャロルコピーしたことねーな)とすぐバレる、上から目線でR&Rやキャロルをなめて語る無能爺(旧無能青年 笑)

 

「キャロルでいいんじゃない?どうせ、みんな3コードで簡単だし」

手始めに何か曲をやろうと集まった時、こんな事言うバンマスのバンドに、大昔入ってたことがありますが、ボクは(こいつキャロルをコピーしたことねーな)って、すぐバレましたね(笑)。

だって、メロディメーカー矢沢永吉氏のキャロル時代の楽曲に、3コードのR&Rはないから。

このバンマス、自分はクラシック畑の人間だけど、皆さんに合わせて、ロックなんてもんも、やってやってもいいよ的な、上から目線の生意気な奴で(笑)、、、

結局、最後までそのクラシック畑らしい演奏を、残念ながら一度も!聴くことはなかったのですが(笑)、この阿呆でターへーなバンマスに限らず、キャロルサウンドを誤解してる人、巷の爺婆に多いので、、、

ちょいと僭越ながらキャロルサウンドと、メロディーメーカー矢沢永吉氏が、如何に!凄いか!解説したいと思います。

キャロルで最も有名な曲、「ファンキーモンキーベイビー」。

チャック・ベリーに代表される、R&Rの定石ギター奏法を、内海利勝氏が歌メロの伴奏で駆使してます。

弾ける弾けないは別にして、キャロルをコピーしようとした事のある人、ない人はすぐわかる!

なので、全く楽器をやらない人より、ちょっとギターをかじった人だとそれがわかるので、勘違いするわけですが、「ファンキーモンキーベイビー」は、普通のR&Rやブルース進行ではありません。

内海利勝氏の歴史的なギターソロ解説は後にして、「ファンキーモンキーベイビー」の歌い出しは、Eコードからはじまります。

R&R、ブルースの定石だと、トニックのEからこのあとサブドミナントのAにいくわけですが、「ファンキーモンキーベイビー」は、行きません(笑)。

トニックのEの次はドミナントのBに行き、そしてF♯mを弾いてから、サブドミナントのAに行きます。

なので、歌い出しのメロハモから、「ファンキーモンキーベイビー」を、普通のR&Rと同じなんて思ってると、弾けないようになってます(笑)。

だ・か・ら!、、、

1回でも「ファンキーモンキーベイビー」を、コピーしてみようと思ったことがある人なら、この曲は3コードのR&Rではないと、一発でわかるわけです。

これ「ルイジアンナ 」もしかり。

だから、キャロルは3コードで簡単とか言ってるおっさん、爺さんは、実は一度もキャロルをコピーしようとしたことがない、わかってないことすらわかってないまま年くった、インチキ親爺、嘘つき爺さんです(笑)。

キャロルの曲は、特にコードやコード進行が難しいわけではない。

まぁ〜サビで、もう1つ!C♯mが入ってますが、「ファンキーモンキーベイビー」は、それこそボク等世代だと中学時代「女にモテようと思って」アコギを持って、明星とか平凡の「歌本」で、かぐや姫吉田拓郎氏の曲で、コードを覚えた人でも、、、

FとB♭の壁を突破した人なら!!(笑)、

今でも弾けるコード、そしてコード進行で、別にジャズで使うテンションコードとか入ってるわけでもないので、そういう意味での難しいコードとか、厄介なコード進行という意味ではありません。

ただ、通常のR&R、ブルース進行じゃ「ファンキーモンキーベイビー」は、弾けないですぜって話。

更に後半、半音転調してるし、、、

だから、短い曲ながら「ファンキーモンキーベイビー」は、いざ演奏すると気が抜けない(笑。気を抜くな!って話ですが)。

更に、このキャロルはコーラス、ハーモニーが、また至難の技で、矢沢永吉氏もジョニー大倉氏も、シンガーとして相当な力量の持ち主。

グルーヴ溢れる演奏しながら歌ってハモるって、かなりハードルが高いのは、キャロルのコピバンやってる人たちや、キャロルの曲を弾き語りした経験のある人なら、わかると思います。

キャロルは実は、あの雰囲気を再現するのは、かなり!難しいバンド。

これザ・ビートルズもしかりで、基本的な演奏力がないと、とても下手に聴こえちゃう、けっこう恐ろしいバンドです。

特に矢沢永吉氏のベースフレーズを弾きながら、ベーシストが「ファンキーモンキーベイビー」を歌うのは、かーなり大変です。

何故?ファンキーモンキーベイビーのリードギタープレイは、印象的なのか?


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で、内海利勝氏の歴史に残るリードギタープレイ!何故?あのギターフレーズは、人々の心に印象に残ったのか?

日本人でも、歌いやすいフレーズだからです。

これもR&R奏法、ブルース奏法、チョーキングなどを内海利勝氏は駆使してるので錯覚されがちですが、「ファンキーモンキーベイビー」の有名なギターソロフレーズは、普通にメジャースケール。

 

R&Rやブルースでよく使われる、ブルーノート・ペンタトニックスケールではありません。

私的には、特に楽器をやらない日本人には、このブルーノート・ペンタトニックスケールは、耳に馴染みにくいスケールだと、ボクは思ってます。

でもメジャースケールなら、小中の音楽の授業から誰でも馴染んでるので、覚えがいい。誰もが、口ずさみやすい。

だから、「ファンキーモンキーベイビー」のリードギターフレーズって、メジャースケールだから、誰もが耳に馴染みやすく、口ずさみやすいんですねー。

が、しかし、、、

この誰もがご存知のメジャースケール、一歩間違えると「臭い」フレーズになる(汗)、、、

なので、このへんは演者のセンスとしか、言いようがないので、R&Rギターに聴かせた内海利勝氏、本当に万歳です!!

だから、、、

ブルーノート・ペンタトニック」のブルージーでロック的なフレーズが得意な人でも、メジャースケールが臭いから好きじゃない人は、「ファンキーモンキーベイビー」のギターソロは、ちょっと練習しないと、弾けないようになってます(笑)。

キャロルはパブリックイメージと、楽曲のイメージが異なるバンド!

というわけで稀代のメロディメーカー!矢沢永吉氏の楽曲は、キャロル時代から、かなりポップでキャッチーな曲ばかり。

なので、リアルタイムを知らず「伝説」と風貌で、キャロルにパンキーさを求め、後追いでキャロルをCDで聴いた女性に、もっとワイルドな曲が多いと思ったのに「がっかりした」と、言われた経験がボクはあります。

そう、キャロルは案外、バラードとポップな曲が多いし、詞も内省的なそれが多い(ジョニー大倉氏の性格だと思います)。

正直ストレートなR&R、パンクノリをキャロルに期待してCDを買うと、後追いの方は裏切られます(笑)。

で、最後になりますが、例え3コードでも、R&Rはグルーヴを出すのは容易ではないですし、その昔のロカビリーのプレイヤーは、元々はジャズやブルース、C&W奏法を身につけていた人達。

ジェフ・ベックが習得したギャラッピング奏法しかり、案外、R&Rのギターは難しかったりしますし、もちろん、ブルースも甘くはない。 

だから、こういう使われてるコードの数だけで、その楽曲の優劣を語るのは、間違ってるんですね。

もしそれで優劣が決まるなら、チャック・ベリーの「ジョニーBグッド」より「ファンキーモンキーベイビー」の方が、使ってるコードは多いから、秀逸論になりますが、、、

こんな事で楽曲の優劣つけてる音楽家、まずいないですから(笑)。

   

ZEPのボンゾやザ・ヴェンチャーズのメル・テイラーの憧れのドラマーだった、ジャズドラマー!ジーン・クルーパの金字塔!

ちょっとした音楽ファンなら誰もが!聴き覚えがあるであろう、ベニー・グッドマン楽団の「シング・シング・シング」。

叩くは元祖!ドラムスターとボクは思っております、ジーン・クルーパ。

50年代半ばから後半、空前のR&R(R&B)ブームが起きる迄、アメリカで大衆に圧倒的に支持されていたのは、ダンスミュージックだったジャズでした。

そしてそれは戦後日本にも入ってきて、日本でも一大ジャズブームが起きています(戦前から日本にジャズははいっていたが)。

特に日本でジョージ川口氏、猪俣猛氏、フランキー堺氏といったドラマーが、ジャズブーム期、注目を集めたのは、こちらジーン・クルーパの影響だったでしょう。 

まあ「シング・シング・シング」そのものが大東亜戦争以前、1930年代の曲と古く、大東亜戦争以前に既にジーン・クルーパはベニー・グッドマン楽団を脱退しております。

初来日の1952年(戦後未だ7年)は、人気のベニー・グッドマン楽団ではなく自身のグループでの来日とはいえ、戦後の日本のジャズブームに、多大な影響をジーン・クルーパが与えたのは紛れもない歴史の事実でしょう。

とはいえ、当時の日本人でジャズだのドラムスだのに興味を抱いていた人は、かなりの「ハイカラ」で「あか抜けた」人達。

なので一般論の戦後史では、あまりジーン・クルーパや当時のジャズブームは、語られることはないようです。

大衆にとけ込んだブームは、やはり1950年代後半のロカビリー、ウエスタンブームからの方がマスメディアも紹介がしやすいのでしょう。

が、やはりそれ以前のジャズブームを語らないと、日本の戦後の音楽史はちゃんと見えないようになっております。

ジーン・クルーパはドラマーとしても凄いプレイヤーでしたが、1930~40年代のダンスミュージックとして圧倒的に大衆に人気があり支持されたジャズ、ジャズマン達は普通にスターでした(今の中年層にはロックスター、若い人達はJポップやジャニーズ系のソレと思えばわかりやすいかも)。

ジーン・クルーパはルックスもよく、又、終始笑顔での演奏、踊るようにドラムを叩くその明るさから、中でも大スターだったよう。

なので、彼の往年の映像と音源は、かなり残っており、YouTubeでアップされてるのが、とても嬉しいですね。

で、このジーン・クルーパに憧れてたドラマーが、ロック界にその人ありのレジェンド、ロックスター!レッド・ツエッペリンのボンゾ=ジョン・ボーナムやカーマインアピス、キッスのピーター・クリス。

更には、日本でも大人気のザ・ヴェンチャーズのドラマーだったメル・テイラーも、彼の影響を強く受けているそうです。

特にボクはメル・テイラーのドラミングとパフォーマンスは、最も!ジーン・クルーパの影響を感じます。

古のジャズブームで人気だったジーン・クルーパ、そして彼に影響をうけた、日本でエレキブームを巻き起こしたザ・ヴェンチャーズのドラマーだったメル・テイラー。

彼等ドラマー二人の名を知らずとも、日本人は彼等二人のドラミング、グルーヴに、無意識のうちに潜在的にかなり感化された民族だと言えます。

 

あの!帝王マイルス・デイヴィスが衝撃を受けた、ジミ・ヘンドリックス、ジェームズ・ブラウン、スライ・ストーンの歴史的意義!

 


これはボクの勝手な想像ですが、マイルス・デイヴィスは、自分がやってるビ・バップ、ハードバップ、クールジャズに、大衆は普通についてくると、きっと自信があったと思うんです。

でも、それまで、ダンスミュージックとしてのジャズを受け入れていた大衆には、ビ・バップ、ハードバップ、クールジャズは、難しすぎた。

で、、、

マイルス・デイヴィスは、アメリカでありがち、日本人でも想像できちゃう、貧しいアフリカンアメリカンの家庭に生まれ育っていません。

マイルスの祖父は複式簿記で、アーカンソーで右に出るものがいないと言われた聡明な人物。

白人たちは、帳簿を直してもらいに詰めかけてきたというこの祖父は、それで稼いだ金でアーカンソーに60万坪の土地を買った大地主。

その祖父の子=マイルスのパパは、あの時代に肌が黒いのに大学まで進学。

そして歯医者になってます。

マイルスのパパも才覚があったのでしょう、白人相手と黒人相手の二箇所で歯医者を開業。

マイルス・デイヴィスは、お金持ちの祖父と父を持つ、正真正銘の!お坊ちゃま君です!!

自分が大好きなジャズから、大衆が離れていくのを目の当たりにするマイルス・デイヴィス

お金持ちの家に生まれ育ったマイルスに、音楽で成り上がろうという意識はなかったでしょう。

生まれた時からお金持ちの、マイルスは超お坊っちゃまですから。

純粋にジャズに目覚めジャズプレイヤーに憧れ、そしてチャーリー・パーカーに会いたくて、ニューヨークに行った若きマイルス、、、

多分この時、かなりのお金を持っていたでしょう。

トランペット1つ持ち、ポケットには小銭だけなんて、ありがちな伝説にマイルスは当てはまらない(笑)。

勿論、マイルスは、人としてだけではなく、ミュージッシャンとしてのプライドも高かった事でしょう。

そして、マイルス・デイヴィスはジャズの世界で「その人あり」になります。

批評家たちもマイルスを賞賛します。

でも、自分が子供の頃、普通に肌の色が白くても黒くても、みんなが好んでたジャズから大衆が離れていくのを、マイルスは目の当たりにします。

ジャズにかわって、大衆はR&RやR&Bに熱狂してる。

それまでダンスミュージックとして好んでたジャズが、非ダンスミュージックになったことで、大衆は新たなダンスミュージック、R&R、R&Bを求めたのは、今となっては当然と言えば当然。

大衆には、非ダンスミュージックのビ・バップ、ハードバップ、クールジャズは難しすぎた。

マイルス・デイヴィスの性格が、音楽の流れを変えたと思うな〜♪

まぁ〜マイルスは、漫画家の手塚治虫先生のような性格だったろうと、ボクは勝手に思ってるわけで、、、

肌の色が白い、自分より年下の、そして爆発的に売れてるエルヴィス・プレスリーザ・ビートルズに対する、大衆の熱狂を、マイルスはどうみていたか。

自分が少年時代、大衆のその対象は自分が愛したジャズだったのに、自分が愛した自分がやってるジャズに、大衆は熱狂せず、R&RやR&Rバンドに熱狂してる。

話しが少しずれますが、漫画家の手塚治虫先生は、巨匠になった後も、世の中で大衆にウケてる、売れてる、自分より若い漫画家達に常にライバル心を抱いていたと伝わってます。

「ボクもあのぐらい書けるよ」

 手塚治虫先生は、巨匠なのに!自分を巨匠と崇めてる、自分より若い「今、売れてる漫画家」の作品にたいし、こういうことをよく言ってたそうです。

だから、ボクは手塚治虫先生とマイルスって、性格が似てたんじゃないか?と思ってます。

マイルスがもし、ジャズこそ最高、それ以外は所詮格下の音楽さと、日本のジャズファンに、よ〜くいる考え方の奴で(笑)、世間のR&R、R&Bムーブメントを、余裕かまして達観してたら、、、

音楽の歴史、ちょいと変わってたかもしれないですよね〜。

マイルスは、手塚治虫先生と同じで、今売れてる、自分より若いミュージッシャン達と、それに熱狂する大衆がやたらと気になる奴だった(笑)。

手塚治虫先生の「ボクもあのぐらい書けるよ」と同じように、マイルスも自分がその気になれば、世界最高のR&R(R&B)バンドぐらい、すぐ作れるさと考えてたのでしょう。

でも、マイルスは大衆迎合しない。

熱狂の渦の中にいた白人ロックンローラー、R&Rバンド、アメリカンポップスに迎合しない。

元々お金持ちのお坊っちゃま君だし、ジャズの世界では富と名声はちゃんと得てたから、その必要もない。

でも、決定的だったのは、自分と同じ、肌の黒い若きジミ・ヘンドリックススライ・ストーンの、エレクトリックなロックに、白人達が熱狂してるのを目の当たりにした時でしょう。

更には、黒人達もジャズではなく、ジェームス・ブラウンのファンクに熱狂してる。

40歳を超えたマイルス・デイヴィス、遂に!それまでの自分のスタイルのアコースティックなジャズを、やめる決心をここでしちゃう。

所謂「エレクトリックマイルス」に、1970年突入直前、突然!マイルスは変わっちゃう。

「エレクトリックマイルス」は、稚拙なジャンル分けを超越した!

なんと!マイルスは、それまでのアコースティックなジャズコンポではない「エレクトリックマイルス」バンドで、1970年に、若きジミ・ヘンドリックステン・イヤーズ・アフター、シカゴ、フリー、ドアーズ等の所謂「ロックバンド」、、、

ジョーン・バエズジョニ・ミッチェルと言った、女性シンガーソングライター達の集まった第三回ワイト島音楽祭に、颯爽と登場!!

マイルスのこの音楽的転換、今も賛否がないわけでもないですが、音楽の歴史が変わった瞬間だったと言えます。

でも、、、

コアなロックファンにしか知られてないこの「ワイト島」ではなく、映画にもなった「ウッドストック」に、もし!マイルスが出てたら、、、

「エレクトリックマイルス」の映像が、ジミ・ヘンドリックスやスライストーンの映像と共に、「ウッドストック」に収められていたら、、、

コアな音楽ファンだけでなく、もっと多くの人に、当時のマイルス・デイヴィスの存在意義、知られてたでしょう。

当時のマイルスが、その後のクロスオーバー、フュージョンシーンに、どれだけの影響を与えたか、もっと大衆に知れ渡ったでしょう。

残念ながら、今も普通に自分と同世代の爺婆と音楽の話をしてて、マイルスって名前だすと、ジャズはよくわからないって、引かれて、それでちゃんちゃんになる事が殆どです。

それでも、マイルス、マイルスって言うと、音楽通ぶった嫌味な奴と思われるので、相手の音楽の想い出に適当に話し合わせます(笑)。

だから、近年はそういうのが、本当に!面倒くさいので(笑)、あんまり外では音楽の話し、しないように意識的にしてます。

酒飲んだら、助平な話しししてるのが無難(笑)。

で、最後になります。

マイルスも望んでたジミ・ヘンドリックと、マイルスが1枚でも!アルバム出してたら、随分とその後のクロスオーバー、フュージョン、果ては日本の歌謡芸能の世界まで、変わってたと思うので、ジミの早死は、本当に悔やまれます。

 

「ワン・プラス・ワン」と「ゲットバック」は、1968~1969年の激動のニューロックの時代を描いた、歴史に残る名作と思いまする!

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1968年、まだブライアン・ジョーンズ在籍時のザ・ローリング・ストーンズのアルバム「ベガーズ・バンケット」の1曲目、「悪魔を憐れむ歌」。

このレコーディング風景等を撮影したジャン=リュック・ゴダール監督の「ワン・プラス・ワン」が、2021年12/3(金)から新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開されます。

で、この映画、日本で初上映されたのは1978年末とかなり遅れ、リアルタイム1968年の日本の若者達は観ていません。

ちなみにザ・ビートルズが、有名な「ゲット・バック・セッション」に入るのが1969年1月。

ストーンズの「ワン・プラス・ワン」の影響を、少なからず言い出しっぺのポール・マッカートニーは受けていたと、私は思ってます。

ザ・ローリング・ストーンズの、その後の活動に繋がる原点回帰になったシングル「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」がイギリスで発売されたのが1968年5月、アメリカが6月。

「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」はイギリスで堂々!チャート1位を獲得し、オーストラリア、西ドイツでも1位。アメリカでもビルボード最高位3位の世界的なビッグヒットになりました。

同時期、ザ・ビートルズはシングル「レディ・マドンナ」が発売された頃で、この曲はレノン=マッカートニー名義になってますが、ポール・マッカートニー主導の曲なのはファンの間では有名な話。

B面はジョージ・ハリスンの「ジ・インナー・ライト」で、前作のシングルA面の「ハロー・グッドバイ」もポール主導の曲で、この後のビッグヒット!「ヘイ・ジュード」もポールです。

という感じで、1966年頃まではバンド内で圧倒的存在感だったジョン・レノンの影が、ちょいと薄くなってポール・マッカートニー主導になっていた時期なのは、これもファンの間では有名。

まぁ〜ポール・マッカートニーが、他のメンバーへの原点回帰の呼びかけと伝わる「ゲット・バック・セッション」ですが、ポールの対象はジョン一人だったでしょう。

なんたってジョン・レノンは「ゲット・バック・セッション」の1ヶ月前の1968年12月に、ザ・ローリング・ストーンズのスタジオライブ映像の「ロックンロール・サーカス」に単独で参加。

ストーンズキース・リチャーズをベースに、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリアンスのミッチ・ミッチェルをドラム、そしてクリームのエリック・クラプトンとスーパーセッションをやっていますから。

そしてそのグループ名は「ザ・ダーティー・マック」。

演奏した曲はアルバムが発表されたばかりの、通称「ホワイト・アルバム」からの1曲、ジョン主導で作ったザ・ビートルズの「ヤー・ブルース」ですから、この時のポールの心中や如何にです。

そして、そんなポールもジョンも想定外だったのがジョージ。

ザ・ビートルズのバンド加入の経緯から言っても、ジョージ・ハリスンは年上のポール・マッカートニーの弟分だと、ポールとジョンは思っていたと思います。

でも「ゲット・バック・セッション」で、こちらもファンには有名なポールとジョージの口論が起きたり、ジョンとジョージが対立してジョージが「バンドを辞める」とスタジオから出て行ってしまう。

こんな感じでジョージ・ハリスンがこの頃、バンド内でかなり自我を持ち始めていたのは、ポールは勿論ジョンも想定外だったと思われます。

「手堅い仕事」と割り切っていた感のある、ミックとキースより年上のビル・ワイマンチャーリー・ワッツ、、、

 

「ワン・プラス・ワン」で観られるように、ザ・ローリング・ストーンズの楽曲は、主に作曲者のキース・リチャーズの指揮でアレンジがなされるわけですが、ザ・ビートルズはそうではない。

ジョン・レノンポール・マッカートニーという、稀代の天才二人のソングライターがいて、更に!ジョージ・ハリスンもこの頃はソングライターとしても自信を持ち出していた。

ゲット・バック・セッションでのポールは、自身のオリジナルが多かったこともあるでしょうが、「ワン・プラス・ワン」のキースのように主に全体の指揮をとってます。

が、ザ・ビートルズを作った男、ジョン・レノンはあまりこれは面白くない。

 「ワン・プラス・ワン」での、ザ・ローリング・ストーンズを作った男、ブライアン・ジョーンズは全く精彩を欠いていて、この後に解雇されるのも当然かな?って感じを受けますが、ジョンは元気です!

ジョージが「辞める」と言って出ていった後、ジョンはエリック・クラプトンを代わりに入れようと言ったのは有名な逸話ですし、この後ジョンはプラスティック・オノ・バンドにエリックを招聘しています。

キースとミックはブライアン・ジョーンズの解雇を決定し、新たにリードギターに「エリック・クラプトンばりにうまい」ミック・テイラーを加入させたのも、ファンには釈迦に説法。

結局、1970年前後のスーパーギタリスト人気の時代、ザ・ローリング・ストーンズはミック・テイラーを加入させた事で、うるさ型の次世代の若いロックファンにオールドウェーヴ扱いされずに済んでいます。

 

一方、ザ・ビートルズの「ゲット・バック・セッション」はポールの思惑通りには行かず、ジョンの心はザ・ビートルズから離れ、プラスティック・オノ・バンドを結成し、グループの脱退を表明。

更にはジョージまでもソロ活動に重きを置くようになり、解散に突っ走ってしまったわけです。

ザ・ローリング・ストーンズには、ミックとキースより2歳年上の「R&R嫌い」の自称ジャズドラマーのチャーリー・ワッツと、更にそのチャーリーより5歳も年上のベーシストのビル・ワイマンがいました。

この二人はザ・ローリング・ストーンズを「手堅い仕事」と捉えていた向きがあり、「ワン・プラス・ワン」を観た方ならご存知の通り、キースはチャーリーのドラミングに露骨にクレームをつけてます。

そして「悪魔を憐れむ詩」のベースは、結局キースが弾いて、リズムに他所からパーカッション奏者を招き、あの!グルーヴを完成させてるほど、チャーリーもビルもそれに反論はしないタイプ。

チャーリーとビルは「手堅い仕事」で、それまで同様、いや、それ以上の高額なギャラを貰えれば、年下のキースの言うことを聞いてた方が人生は得だというスタンスだったと、私は感じています。

まぁ〜大の大人の男たちが、狭い空間で一緒に仕事をするわけですから、そりゃーどのバンドも色々あらーなーなわけで、チャーリーやビルとて揉め事がなかったわけではないですが、最後はこの考えに落ち着く。

とはいえ、新しく加入したミック・テイラーも、ザ・ローリング・ストーンズで一財産作ったからでしょうか?僅か5年でグループを脱退し、我が道を行っています。

そして1992年には、「手堅い仕事」のザ・ローリング・ストーンズで莫大な金を稼いだのでしょう。ビル・ワイマンも脱退。

ミックとキースは同級生の友達の仲ですが、私的には、この他のザ・ローリング・ストーンズのメンバー達が、音楽を「仕事」と割り切ってる姿勢が、私はとても好きです(笑)。

ザ・ビートルズ正式解散前に発表された、ジョン・レノンエリック・クラプトンの「コールド・ターキー」!

でも、ザ・ビートルズのジョン、ポール、ジョージの三人はリバプールの先輩と後輩の仲で、ザ・ローリング・ストーンズのメンバー達に比べると、とても!近しい間柄。

なので、一番先輩でザ・ビートルズを作ったジョンにしてみたら、後輩のポールにバンドの主導権を握られるのは面白くない。

また、ポールも自分がバンドを引っ張って、その結果メンバー達に「面倒臭い奴」と思われるのは本意ではないわけで、リーダーのジョンに本当は引っ張ってもらいたかったと思うわけです。

でもジョンは、亡きマネージャーのブライアン・エプスタインの代わりはやれなかったし、やる気もなかった。

更に!一番年下のジョージも、先輩の二人にいつまでも後輩扱いされるのが不快なのは当然。

だから、、、

私的には映画「ワン・プラス・ワン」と「レット・イット・ビー」=「ゲット・バック」は、激動のニューロックの時代を生き抜いたストーンズ、解散したザ・ビートルズの違いがわかる、とても面白い作品と思うわけであります。

まぁ〜歴史にifはないのは、どの世界でも同じ。

もしザ・ビートルズがあのままジョージが辞めると言ったのを受け入れ、ジョンが言う通りにエリック・クラプトンをグループに入れても、その結果はどうなっていたか誰にもわかりません。

また、エリックはジョージの友達ですし、年上のうるさ型のジャック・ブルースジンジャー・ベイカーとのクリームでエリックは懲りてるので、年上のジョンとポールとザ・ビートルズはやらなかったでしょう。

実際にジョンはプラスティック・オノ・バンドでエリックを招聘し、ドラムはザ・ビートルズリンゴ・スター、ベースにザ・ビートルズの旧友のクラウス・フォアマンで「コールドターキー」を発売。

ロックファンにはとても評価の高い曲ですし、もし!「コールドターキー」が英米で大ヒットしていたら、ロックの歴史は変わっていたかもしれないと私的には思っています。

正式にザ・ビートルズ解散が伝わる前に、ジョンがプラスティック・オノ・バンド名義で、このメンバーで「コールドターキー」を大ヒットさせていたら、エリックはどうしたでしょうね〜?

エリックもクリーム解散後、鳴り物入りで結成され話題沸騰、大きな商業的成功も得たブラインド・フェイスが1年も持たずに空中分解した後でしたから、そのままジョンと一緒にやり続けたかもしれない。

ジョンはジョンで、おそらくポールとのザ・ビートルズではない、エリック・クラプトンのギターと自分のギターと歌唱で起こる「ロックの魔法」を期待していたと思います。

私的に「コールドターキー」は、それに成功したと思いますが、残念ながら大ヒットしなかった。まぁ〜その原因は、英米の放送局で放送禁止になったのが大きかったでしょう(ドラッグソング認定の為)。

結局、ジョンはエリック・クラプトン獲得に失敗し、エリックは我が道を行くわけで、年が明けた1970年4月10日、ポール・マッカートニーザ・ビートルズから脱退することを発表。

ザ・ビートルズは正式に解散したわけであります。