チャールズ・マンソン一派のシャロン・テート殺害事件で逮捕された時、実行犯の女性3人は笑顔で歌を唄っていた!

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1969年、女優シャロン・テート殺害含む9件の殺人事件を起こした、チャールズ・マンソン一派。

上は逮捕されたチャールズ・マンソンですが、下の実行犯の女性3人は逮捕時も手を繋いで笑顔で歌を唄っています。 

この女性達が、妊娠中のシャロン・テートの腹をかっさばいて惨殺したのですから、立川談志家元の名言ですが、本当に「バカは隣の火事より怖い」。

で、チャールズ・マンソンは1934年11月生まれで、事件を起こした1969年夏の所謂サマーオブラブ、ヒッピー・フラワームーブメント最盛期は既に34歳のいいおっさんでした。

人生の殆どを孤児院と刑務所で過ごしていた、小男の30過ぎの無職のおっさんが刑務所から出てきたのは事件の2年前の1967年。

当時若者のオピニオンリーダーでもあった、あのザ・ビートルズに憧れ、自分も年下のザ・ビートルズになりたい、なれると思って出所したマンソンは「30過ぎの夢見る無職のおっさん」。

そんなマンソンは出所後は、刑務所で一緒だったギャングにギターを教わっていたので、ギターを抱え街角で歌を唄いルンペン生活をしていました。

教養も持ち合わせていなければ一般常識もなく、刑務所以外でまともに労働をしたこともない、また、する気もない30過ぎの頭のおかしいルンペンのおっさん。

そんな今の感覚なら「残念な人」のマンソンでも、暮らせてしまったのが当時のサマーオブラブ、ヒッピー・フラワームーブメントのサンフランシスコだったわけです。

サマーオブラブ、ヒッピー・フラワームーブメントの時代でなければ、マンソンは唯のルンペンのおっさん!

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でもこのマンソン、唯のバカではなく口は達者だったのが厄介で、サマーオブラブ、ヒッピー・フラワームーブメントに感化され家庭や学校、社会に不満を抱えるおねーちゃん等が喜ぶ言葉を、ちゃんと知っていたんです。

マンソンのママは16歳の売春婦をやっていた家出少女で、懲役をくらうような犯罪者なので、マンソンは親戚の家を転々とした結果、養護施設で少年時代を過ごしているので、親や家庭に不満のある女の子達の気持ちが、手にとるようにわかったんでしょう。

でもマンソンは、繰り返しますが30過ぎのザ・ビートルズに自分はなる、なれると思っていた盆と正月の無職のルンペンのおっさんです。

もし、マンソンが女にモテないで音楽業界の人間とも出会わなければ、普通にそのまま窃盗や強盗などでパクられ再び刑務所に送られ、次にシャバに出てきた時は40のおっさんだった事でしょう。

ところが、サマーオブラブ、ヒッピー・フラワームーブメントという特殊な時代背景がマンソンには吉と出て、マンソンファミリーという女の子達と集団生活を送るハーレムを、マンソンは築いてしまいます。

で、ここで終わっていたら、30過ぎの無職でルンペンのおっさんには天国だったでしょう。でも、マンソンにはザ・ビートルズになりたいという野心があった。

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一方、マンソンとは全く別の世界・違う人生で、同じようなハーレムを築いていたのが、ザ・ビーチボーイズで大当たりしていたドラマーのデニス・ウィルソンと音楽プロデューサーのテリー・メルチャー。

この二人との、マンソンにしたら幸運な出会いが、マンソンとそのファミリーと呼ばれる女の子達と、そして殺害された人達の人生を大きく変えてしまったわけです。

きっかけは、デニス・ウィルソンがヒッチハイク中のマンソンファミリーの女の子をナンパして車に乗せた事。

デニス・ウィルソンはマンソンより9歳も年下の若者。そしてザ・ビーチボーイズが当たった、若くして大金持ちでもあるロックスター!

ですが、ファンの方々には有名ですが、ザ・ビーチボーイズの主要メンバー、ウィルソン三兄弟も親との確執のある一家・バンドで、けっしてアメリカ西海岸のパブリックイメージの、青い海と空の下の中産階級のアットホームな家族ではウィルソン一家はなかったのが、マンソンにつけいる隙を与えたのでしょう。

マンソンが野宿のような生活でハーレムを築いていたのに対し、時代のロックスター!デニス・ウィルソンはビバリーヒルズのプール付きの豪邸で、酒池肉林のハーレム生活を送っていたそう。

この富と名声を得た若者と、30過ぎの無職でルンペンのおっさんの対照的な二人は、家庭的な問題を抱えてる同士、そしてアウトサイダーな精神状態と音楽という共有点ができてしまったんですね〜。

ザ・ビートルズになりたかった30過ぎのルンペン(マンソン)が、デニス・ウィルソンとテリー・メルチャーと出会ってしまった神の悪戯、、、

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20代前半のデニス・ウィルソンにしたら、乱痴気騒ぎができる新しい女の子達が沢山来るならいいやとも思ったのでしょう。マンソン一派を豪邸に入れ住まわせます。

ルンペンだったマンソンしかり、家出したファミリーの女の子達しかりで、プール付きのデニス・ウィルソンの豪邸でのセックス・ドラッグ三昧の日々は、夢のような世界だったでしょう。

まぁ〜少し前に都内で少女雑誌の読者モデルとかやり、高校時代から化粧して髪を染めて遊んでた女の子達が、突然!ジャニーズの有名人の住む豪勢なタワーマンションで共同生活するようになった。

そう思えば、今の日本人でも当時のマンソン一派の女の子達の気持ちはわかるでしょう。女の子達にとって、そこは憧れのロックスターの住む夢の世界!

ここで更に!マンソンは、デニスの乱痴気騒ぎ、酒池肉林仲間の音楽プロデューサーのテリー・メルチャーと出会います。

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テリー・メルチャーも1942年生まれで、マンソンより8歳も年下の20代の若者で、彼はアメリカの代表的な女性歌手ドリス・ディの息子というお坊ちゃま君↑。

ザ・ビーチボーイズは元より、バーズの「ミスター・タンブリンマン」も手がけた若き成功者でもありました。

多分、テリー・メルチャーもデニス・ウィルソンも、マンソンファミリーの女の子達とセックスがしたかったから、30過ぎの無職でルンペンのおっさんのマンソンを仲間に迎え入れたのでしょう。

そして酔った勢いなのか?ラリった勢いなのか?、テリー・メルチャーはマンソンのレコードデビューを約束します。

実際にマンソンはザ・ビーチボーイズのレコーディングに立ちあったり、自らのレコーディングもやっており、この刑務所帰りの30過ぎの無職のルンペンのおっさんの夢は、驚くことに叶う寸前でした。


が、人の言うことに聞く耳を持たない常識も教養もない、人生の殆どを少年院と刑務所で過ごした、毎日ラリってる30過ぎのルンペンのおっさんのマンソンが、レコーディングスタッフとうまくやれるわけもなく、レコードデビューは御破算。

結局、テリー・メルチャーはマンソンとの約束を反故にしてしまい、やはりこの逆恨みが事件の発端でしょうね〜。

更に!若くして大金を手にするも経済観念のないデニス・ウィルソンも、放蕩がたたり邸宅から出なくてはならなくなり、マンソンとファミリーはまた!ルンペン、野宿生活に戻ってしまいます。

それまで経験したことのない夢のような生活を知ってしまったマンソンとそのファミリーが、元の野宿生活に耐えられるわけがありません。

更に!ドラック常用の結果のありがちな妄想に、マンソンもファミリーもとりつかれ、有名なザ・ビートルズの元祖ヘビーメタルの「ヘルター・スケルター」は、彼らからの最終戦争のお告げであるとマンソンは勝手に解釈。

ここから、マンソンファミリーは人殺しも辞さない武装集団化していくわけで、この辺は日本の後の連合赤軍オウム真理教によく似てます。

酒池肉林好きのルンペンのおっさん(マンソン)が、一度知ってしまった豪邸暮らしが忘れられなった、惨劇・悲劇の我儘な動機!

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更にはやはり夢のような生活が忘れられなかったのでしょう、金持ちの邸宅を狙う強盗殺人集団にマンソンファミリーはなり、一件の殺人事件後、逆恨みしているテリー・メルチャーの邸宅に押し入ります。

ところが既に彼もその邸宅からは引っ越しており、そこには新たな住人、女優のシャンロン・テートが不幸にも住んでいた(ご主人のロマン・ポランスキー監督はロンドンで映画撮影中で不在)。

そして惨劇は起きました。

実際に一連の強盗殺人事件のマンソンは実行犯ではありませんが、実行犯のマンソンファミリーの女の子達を洗脳し命令指揮したということで逮捕。

↑普通に考えて逮捕時のマンソンを見れば、ただのルンペンの汚いおっさんですが、これは日本のオウム真理教麻原彰晃も似たようなもんで、第三者が見るのと当事者の信者が見るのでは違うのでしょうね。

で、デニス・ウィルソンは1983年に39歳で他界しており、テリー・メルチャーもドラッグでボロボロになった後、1988年にビーチボーイズの「ココモ」の作曲に参加。

このビッグヒットで復活を果たしましたが、2004年に62歳で他界。

妊娠中に殺害されたシャロン・テートは26歳で生涯を乱暴に終わらされましたが、首謀者のマンソンは2017年に獄中死する83歳まで、刑務所で長生きしました。