長嶋一茂・矢作公一・黒須陽一郎各氏在籍時の立教高、立教大は強かった!

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長嶋一茂氏が2年3年在学時の立教高校(現:立教新座)は、夏の全国大会を目指す埼玉県大会で、1982年と1983年に共に準決勝まで進出しましたが負けています。

長嶋一茂氏2年時の1982年、準決勝の立教の相手は熊谷でしたが延長戦の結果2対3のさよなら負け。そしてこの熊谷が決勝で、プロ注目の超高校級!斎藤雅樹投手の市立川口も3対1でくだし優勝しました。

熊谷は31年ぶり3回目の全国大会出場でしたが、初戦になる二回戦で沖縄の興南に1対2で敗れています。

まぁ〜この大会は、甲子園5季連続出場の早実荒木大輔投手3年最後の夏だったので、早実が注目の的でしたが、準々決勝でその早実は池田に2対14で大敗し、池田がそのまま夏初優勝を決めた年でした。 

そして長嶋一茂氏3年の翌1983年も立教は埼玉県大会の準決勝まで勝ち上がりますが、やはり所沢商に0対1で敗退。この所沢商が決勝で大宮東に勝ち全国大会に出場しています。

長嶋一茂氏2年3年在学時の立教は、埼玉県大会準決勝で負けた相手が、揃って全国大会出場を決めているのですから、立教ナインにしたら悔しい限りだったでしょう。



で、5年ぶり3回目の出場の所沢商も、全国大会一回戦で2対6でPL学園に敗退しましたが、このPL学園があの!『KKコンビ』=1年生の桑田真澄氏、清原和博氏の甲子園デビューの一戦。

 

あれよあれよと、そんなP L学園が全国制覇した年です。 

というわけで、1982年埼玉県大会決勝で熊谷に敗れた市立川口の斎藤雅樹投手は、早実荒木大輔投手の外れ1位で読売ジャイアンツに指名され、荒木大輔投手の当たりくじを引いたのがヤクルトスワローズ

そして1983年、埼玉県大会準決勝で負けた立教の長嶋一茂氏は立教大学に進み、立教が決勝で川越工をやぶり唯一!夏の甲子園出場を決めるのはその2年後の1985年でした。

立教は一回戦の長崎県佐世保実に5対1と勝利しますが、二回戦の兵庫県東洋大姫路に3対12で敗退。

 

主砲の黒須陽一郎氏は立教大に進み、ここで立教高→立教大と同じコースの2学年上の長嶋一茂氏、1学年上の矢作公一氏と一緒になります。

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ちなみに長嶋一茂氏は東京六大学通算11本塁打で、矢作公一氏は17本塁打、黒須陽一郎氏は15本塁打と、この当時の立教はかなり打線の良いチームで、長嶋一茂氏4年最後の秋季リーグ戦は法政大と最後まで優勝争いをしましたが惜しくも2位。

結局、高校野球の甲子園出場に続いて23年ぶりに立教大がリーグ優勝したのも、黒須陽一郎氏が4年でキャプテンになった1989年の秋のリーグでしたから、長嶋一茂氏は高校、大学は優勝に縁のない選手でした。

で、誰もがご承知の通り、長嶋一茂氏はドラフト1位でヤクルトスワローズに入団。その翌年に矢作公一氏も日本ハムファイターズにドラフト6位で入団しましたが、問題は黒須陽一郎氏。

社会人に就職内定していた黒須陽一郎氏なれど、プロへの夢も捨てきれず立教大OBの片岡宏雄ヤクルトスカウト部長に相談したので、ヤクルトはドラフト3位指名したそうなのですが、結局、黒須陽一郎氏はプロを選ばなかった。

片岡宏雄氏は大いに気分を害し、立教大学野球部と縁を切りOB会も退会。ヤクルトスワローズは以降、今の今まで(2023年現在)立教大在籍中の選手をドラフト指名していません。