1974年、前人未到の『V10』を目指した読売ジャイアンツでしたが、前年は最終戦での逆転優勝だった事もあり「今年は厳しいかも」という見方のプロ野球ファンは少なくなかったです。
その最大の理由は、『ON砲』=王貞治氏と共に打線の主軸!長嶋茂雄氏が年齢的な限界を、そろそろ感じさせていたからで、1971年の6度目の首位打者を最後に、1972~1973年は2年連続で無冠。
1973年の長嶋茂雄氏は本塁打は27本から20本、打点も92から76と成績を下げ、打率も.269と3割をかなり割っており、併殺打も1971~1972年は20、23とリーグワースト。1973年も20併殺打でした。
また、森昌彦氏と黒江透修氏も長嶋茂雄氏と同じように年齢的限界を感じさせており、特に黒江透修氏は『V7』~『V9』の1971年から1973年まで、失策数は3年連続リーグワースト。
同じように、守備も衰えを隠せなくなっていた長嶋茂雄氏との三遊間は、か〜なり『穴』を感じさせていました。

また、森昌彦氏も『V6』~『V7』、『V9』の3年間はシーズン100試合出場超えはしておらず、打率も.210~220台と低迷。失礼ながら全盛時代は過ぎた感は強かったです。
一方、御三方より少し若い王貞治氏は絶好調で!前年の1973年は、打率.355で4度目の首位打者、51本塁打で12年連続12度目の本塁打王、打点114で3年連続8度目の打点王と、見事に初の三冠王!
更には38敬遠、124四球(共にリーグトップ)と、相手チームは3番の王貞治氏との勝負を極力避け、4番長嶋茂雄氏と勝負するパターンが多く見受けられました。
以前より、長嶋茂雄氏は外角を泳いで引っ掛け内野ゴロゲッツーというのは、わりと多かったのですが、併殺打は打っても決勝打も打っていたので、1968~1970年まで3年連続打点王。
が、そんな長嶋茂雄氏も年齢的な衰えは隠せなくなり、他チームは『王敬遠、長嶋勝負』が増えてきて、当然、川上哲治監督も『3番長嶋、4番王』と打順を入れ替え対策を練っていました。
が、それでも川上哲治監督の『V10』を目指す開幕オーダーは、やっぱり『3番王、4番長嶋』。
結果、1974年の王貞治氏の敬遠は更に増え45、四球は158。これは2024年現在、共に今も日本記録です。
この年の王貞治氏のヒット数は128本で、敬遠含む四球の方が上まっており、結果1974年の王貞治氏の出塁率は.532。バッターボックスに2回立てば一回以上出塁してい事になります。
まぁ〜王貞治氏は入団4年目の1962年から現役引退の1年前まで、18年連続リーグ出塁率最多で、17回4割以上という、それだけでも脅威的でしたが、出塁率が5割を超えているのは1973~1974年の2年だけ。
ひとえにこれは、長嶋茂雄氏の衰えが見えてきたので、他チームが徹底して!『王敬遠、長嶋勝負』の作戦になったからと言えます。
そして『V10』逸になった1974年、長嶋茂雄氏の打率は.244、本塁打15本、打点55と全てプロ入り以来最低の数字。
また、敬遠数も入団以来初の0(1961年は35で最多)で、出塁率もプロ入り以来初めて3割を切って.288。一方、王貞治氏は打率.332、本塁打49、打点107で2年連続三冠王を達成。出塁率は脅威の.532でした。
流石に前年の最終戦での逆転優勝のようにはいかず、チームは『V10』ならず、川上哲治監督は勇退。長嶋茂雄氏、森昌彦氏、黒江透修氏は同年をもって現役引退。1つの時代が終わりました。