同じ1947年生まれなれど、星野仙一氏は早生まれなので小坂敏彦氏より学年で1級上。
星野仙一氏は1968年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団し、小坂敏彦氏は1969年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団しました。
当サイトでも、高校・大学時代の成績とプロ入りしてからの成績、その後の人生はリンクしないと再三触れておりますが、星野仙一氏と小坂敏彦氏も正に!それ。
星野仙一氏を知らない人は、野球ファンじゃなくてもいないと思いますが、小坂敏彦氏を知ってる人は、2020年現在、相当コアな60代の野球ファンだけだと思います。
明大:星野仙一 23勝24敗、防御率1.91、199奪三振。
早大:小坂敏彦 22勝6敗、防御率1.68、218奪三振
星野仙一氏は、防御率1点台なのに勝ち星より負け星が上回ってる数字を見てもわかる通り、明治大学時代、一度もリーグ優勝をした事がありません。
当時の東京六大学は、星野仙一氏の同世代には「法政三羽烏」、田淵幸一氏・山本浩二氏・富田勝氏、学年は1つ下になりますが六大学通算48勝の記録を持つ山中正竹投手の法政大。
こちらも1学年下ですが、当時は法大の田淵幸一氏の通算22本に次ぐ19本塁打を放った荒川尭氏、それに次ぐ18本塁打の谷沢健一氏、そしてエース小坂敏彦氏の早稲田大。
1学年上の慶應大には通算22勝19敗の藤原真投手、早稲田大には通算23勝9敗の三輪田勝利投手がいたので、明治大の星野仙一氏は一度も優勝できなかったんです。
まぁ〜「法政三羽烏」と言われても、1年生の時から「怪物」だったのは田淵幸一氏だけで、3人が2年秋は藤原真氏の慶應大、3年春は三輪田勝利氏の早稲田大が優勝しており、「法政三羽烏」が連続リーグ優勝したのは3年秋と4年春。
4年秋も3連覇確実と言われてましたが、「法政三羽烏」を抑えて優勝したのが、1学年下の小坂敏彦投手の早稲田大。
というわけで、星野仙一氏ファンの方には申し訳ないですが、当時「週刊ベースボール」を毎週買ってた子供の感覚では〜、、、
当時の東京六大学野球で、明大の星野仙一氏は、1学年上の慶大の藤原真氏、早大の三輪田勝利氏、1学年下の早大の小坂敏彦氏、法大の山中正武氏の、次ぐらいの評価の投手だったと記憶しております。
なので有名な話しですが、読売ジャイアンツが1968年のドラフト会議で、田淵幸一氏がとれなかった場合、星野仙一氏を1位指名すると約束しておいて、武相高校の島野修一氏を指名したのは〜、、、
約束を破った読売ジャイアンツも問題ありますが、星野仙一氏の評価はその程度だったと言ってしまえば、終わってしまう話しなんです。
一説には、当時の読売ジャイアンツの川上哲治監督が、投手は間に合ってるから将来性のある高卒投手という事で島野修一氏を指名したと言われています。
が!翌1969年のドラフト会議では、読売ジャイアンツはきっちり早大の小坂敏彦氏を1位指名してますから、この説は辻妻が合わない。
更に!小坂敏彦氏は高松商時代、甲子園出場もなかった星野仙一氏と違い3年春夏と甲子園に出場しております。
春は準決勝まで勝ち進み藤田平氏のいた市和歌山商に負けますが、この時の市和歌山商の決勝の相手は星野仙一氏の岡山の後輩、平松政次氏の岡山東商。
小坂敏彦氏の高松商は夏は1回戦で負けますが、延長13回を投げあって負けた三池工はその大会の優勝校(原辰徳氏のパパ、原貢氏が監督でした)。
高校・大学ともに学生時代の球歴は、星野仙一氏より小坂敏彦氏の方が抜けていました。
ところが小坂敏彦氏の入団した当時の読売ジャイアンツは、V9最強時代の1970年はV6の年。
渡辺秀武氏がこの年は23勝8敗、堀内恒夫氏が18勝10敗、高橋一三氏が12勝10敗。
そして山内新一氏が8勝4敗、ベテランの城之内邦雄氏が7勝6敗、倉田誠氏が5勝2敗とローテーションピッチャーが確立されており、若手の新浦壽夫氏、島野修氏、そして小坂敏彦氏の入り込むスキがない。
東京六大学の早大のエース!ドラフト1位の鳴り物入りだった小坂敏彦氏、結局6試合登板しただけで1勝1敗。
一方、前年1969年、ドラフト1位だった星野仙一氏は、監督就任1年目の水原茂監督の積極的若手起用が幸いし、8勝9敗、防御率3.12と新人にしてはまずまず。
星野仙一氏に更に幸いしたのは、この当時、球界を揺るがせていた黒い霧事件(八百長疑惑)でローテーションピッチャーだった田中勉氏が、この年で謎の引退(翌年逮捕)。
そして1970年には、前年20勝のエースの小川健太郎氏が永久追放になり、中日ドラゴンズは投手不足に陥ってしまった事です。
当時の星野仙一氏と東尾修氏の成績が、それほどでもないのは、誰でもわかると思います。
というわけでプロ野球選手も、入った球団のカラーやその時のチーム事情、監督やコーチとの折り合いで、その後の野球人生、かなり変わると私は思ってます。
全て憶測ですが。
ちなみに小坂敏彦氏と同い年で、法政大時代は通算6勝1敗、防御率2.35、39奪三振の影の薄かったのが江本孟紀氏。
早大通算22勝6敗、防御率1.68、218奪三振でドラフト1位の小坂敏彦氏と違い、ドラフトにかからず社会人を経て、ドラフト外で東映フライヤーズに入団しています。
1972年には南海ホークスに早くもトレードに出されましたが、ここで野村克也氏と出会い、江本孟紀氏はいきなり16勝をあげエースに化けています。
有名な「野村再世工場」の第一号は江本孟紀氏で、翌年にも12勝をあげ南海ホークスのリーグ優勝に貢献し、1学年上の田淵幸一氏よりも山本浩二氏よりも星野仙一氏よりも先に日本シリーズを経験しています(相手はV9最後の読売ジャイアンツ)。
一方、星野仙一氏は1971年に続いて1972年も9勝で、「星野ファン」の方には失礼ながら、それほどの投手ではなかったです。
というわけで、星野仙一氏はドラフト1位の大卒選手にしては遅咲きだったと言えます。
結果的にはプロ通算146勝の星野仙一氏は、113勝の江本孟紀氏を上回り、ドラフト1位、東京六大学リーグの先輩の意地を見せる成績を収めています。
更に!東京六大学の1学年上の、慶大の藤原真氏はプロ通算23勝、早大の三輪田勝利氏は4勝と、1学年下の早大の小坂敏彦氏含め、当時の東京六大学のエース達の中で、星野仙一氏は圧倒的な差を示す成績を残しています。