前年の1973年は、作新学院の「怪物・江川」、江川卓氏に湧きに湧いた高校野球。
その1973年、春の選抜で作新学院に準決勝で勝った広島商を決勝で破り、2年生エースとして横浜高を優勝させた永川英植氏が、翌1974年も3年生として春の選抜に連続出場しました(二回戦敗退)。
その大本命、話題の超高校級投手の永川英植氏率いる横浜高を、1974年夏の神奈川県予選決勝で破ったのが1年生の原辰徳氏がいた東海大相模。
今にして思うと、神奈川県と全国高校野球の歴史が変わった瞬間だったと言えますね。
既に原辰徳氏の父親の原貢氏は、1965年の三池工、1970年の東海大相模(2015年同校夏の大会優勝は、これ以来)と二度監督として甲子園優勝経験ある、マスメディアで話題だった方。
で、今度の東海大相模には、その原貢氏のご子息が1年生なのに5番サードで登場するという事で、マスメディアが最初は騒ぎ立てた、原辰徳氏甲子園初登場時は未だ親の七光りでした。
ちなみに今や野球名門校の東海大相模ですが、ここまでは春夏通算4回(春1回、夏3回)出場。優勝した1970年以外の3回は全て初戦負けで、当時の東海大相模は、未だ未だ甲子園では「新興勢力」。
ちなみに、甲子園で金属バットが使われるようになるのは、原辰徳氏初登場のこの大会からでした。
で、1970年夏優勝時の東海大相模は、甲子園全試合で1試合も完封勝ちのない、当時は珍しかった打撃のチームが全国制覇した学校。
で、この大会もピッチャーは、3年生の伊東氏と1年生の村中氏の二人のピッチャーがいましたが、どちらかと言えば同じく打撃のチームでした。
東海大相模初戦の対戦相手は、横浜の永川英植氏、銚子商の土屋正勝氏と共に関東屈指の超高校級投手と謳われた、工藤一彦氏擁する土浦日大。
東海大相模の伊東氏と村中氏には失礼ながら、春の選抜にも登場してる超高校級投手、工藤一彦氏とお二人では格が違いました。
が、終わってみれば東海大相模は、神奈川県予選決勝で永川英植氏を攻略したのに続いて、工藤一彦氏も攻略。
延長16回の末、3-2で東の優勝候補だった土浦日大を、さして前評判の高くなかった東海大相模が破った事で、一躍!東海大相模も原辰徳氏も注目を浴びました。
次の広島代表の盈進戦では、打撃のチーム東海大相模は本領発揮、13-6で打撃戦を制し、更に脚光を浴びます。
ですから、金属バット元年のこの大会の東海大相模こそ!、その後の高校野球の歴史をかえた最初のチームだったとボクは記憶しております。
今やお馴染み、あの!金属音で打ちまくる東海大相模にコアな高校野球ファンは驚き、そして1年生のハンサムボーイ、原辰徳氏に女性ファン達は「ハラくーん」と黄色い声援を送るようになるわけです。
そして準々決勝の相手は、九州の超高校級投手であり、同じくハンサムボームだった定岡正二氏擁する鹿児島実業。
延長で東海大相模は5-4で敗れますが、この激戦によって定岡氏と原辰徳氏は、甲子園のアイドルスターになり、3年生だった定岡氏はこの年のドラフト1位指名で読売ジャイアンツに入団。
1年生だった原辰徳氏は、このあと2年、甲子園で「ハラくーん」と黄色い声援を浴びまくります。
で、結局、東海大相模は優勝した1970年同様、この大会も完封勝ち0でベスト8で敗れ去りました。
が、所謂「超高校級投手」のいない打撃のチームが、これだけ甲子園で活躍するのは、当時としては稀。
正に!当時の東海大相模は、金属バット元年が生んだ、打撃のチームだったと言えます。
そして3年生がひいて新チームになり、原辰徳氏は3番サード。
4番には同じく1年からレギュラーだったライトの津末英明氏が座り、新チームになった東海大相模は秋の神奈川県大会を制し、続く関東大会も見事優勝。
東海大相模は、正に!関東ナンバー1、昨夏甲子園ベスト8の実績をひっさげ、優勝候補として1975年の春の選抜大会に出場(春は5年ぶり2度目)。
東海大相模は関東の野球ファンの期待に応え、昨夏の伊東氏、村中氏の二枚看板同様、本年もピッチャーは今井氏、村中氏の二枚看板で見事!決勝進出。
が、またしても昨夏の準々決勝同様、延長の末、東海大相模は高知高に決勝で10-5で負け準優勝。
そして原辰徳氏2年夏も、東海大相模は神奈川県予選を突破。
東海大相模は春に続いて再び優勝候補筆頭なれど、準々決勝で埼玉県代表の上尾に4-5で敗退。
ちなみに、この夏の大会を制したのは、前年の全国大会優勝校だった千葉県代表、銚子商を県予選で倒した習志野。
で、習志野の優勝投手は、このあと東都大学、社会人野球を経由後、ヤクルトスワローズに入団、野手として活躍後、監督にもなられた小川淳司氏でした。
思えばこの当時の関東は、レベルが高かったですね〜。
さて!が、しかし!、、、
実は「ハラくーん」、原辰徳氏の東海大相模が「強かった」のはここまで。
新チームになって3年最後の春の選抜を目指した東海大相模は、今年も村中氏、岡部氏の二枚看板で臨むも秋の神奈川県大会の準々決勝で横浜高に敗退。
甲子園の道は閉ざされ、原辰徳氏の甲子園連続出場は3季で途切れてしまうんですね。
原辰徳氏最後の3年夏の東海大相模も、神奈川県予選を突破するも、甲子園では同じく関東勢の栃木県代表の小山に1-0の2回戦負け。
結局この大会も、初出場で全くの無名校だった東京代表の桜美林が、決勝で大阪代表のPL学園を破って優勝。本当にこの頃の関東代表は、繰り返しますが何処も強かった〜。
というわけで、「ハラくーん」の東海大相模が全国的に強かったのは、原辰徳氏が1、2年生の時。
なので、既に1年の時からレギュラーだった原氏、津末氏、そしてピッチャーの村中氏が3年生になった東海大相模は、全国制覇するだろうと普通に思われていたわけです。
が、それが春の選抜にはでれず、夏も全国大会で2回戦負けですから、まったく一発勝負の高校野球というのは、やってみないとわからないものだと、何時の時代も思う次第であります。
ちなみに5季連続出場の東京の早実、荒木大輔氏も、準優勝1回、ベスト8が2回(残り2回は1回戦負け、3回戦負け)ですから、原辰徳氏の東海大相模と似てますね。