ザ・ドリフターズは1960代後半から!大人気だったのですよ♪

 

ザ・ドリフターズ志村けん氏の話題が、世代を超えて誰でも話が合い、また話が盛り上がると思う爺です。

 

空前のグループサウンズブームが終焉に向かいだした1969年10月、かの有名な!TBS系列の『8時だョ!全員集合』のテレビ放映が開始しています。

 

ザ・ドリフターズはそれ以前より、既にお茶の間の人気者で、日曜昼の人気のお笑い番組大正テレビ寄席』等にもコミックバンドとして出演したり、単発のテレビショーも多々ありましたし、自らのレギュラー番組も幾つも持っていました。

 

グループサウンズブームの頃、ザ・ドリフターズもバンドでしたからグループサウンズとの共演も多く、少年だった私はザ・スパイダースのフロントの人気者、堺正章氏と井上順氏、そしてザ・ドリターズの加藤茶氏は特に大好きで、腹を抱えて笑っていました。

 

アメリカのグループのテレビ「ザ・モンキーズ」も人気で、当時、少年だった私はバンドというのは「笑い」のセンスのある人たちがやるものと、本気で!思っていました。

 

そんな人気のザ・ドリフターズは当時、コント55号と双璧の人気者で、後のメンバーになる志村けん氏もザ・ドリフターズコント55号のどちらに弟子入りしようか迷っていたと述べていました。

 

結局、音楽好きの志村けん氏はコミックバンドという事で、ザ・ドリフターズに決めたそうで、そのザ・ドリターズの人気に更に!拍車がかかったのが、この『8時だョ!全員集合』だったのは間違いないでしょう。

 

翌1970年の春には、日本テレビ系列で『ドリフのドパンチ!学園』も放映開始され、テレビのレギュラー番組が2本になり、以前より日劇浅草国際劇場での単独ショー始め、地方公演の仕事もしており、かなりザ・ドリフターズは多忙な日々を送っていたと思われます。

 

ザ・ドリフターズのメンバーは控えめに「歌はヒットしなかった」と証言していますが、それは先輩バンドのザ・クレイジーキャッツ植木等氏に比べてという意味なのでしょうか?実際に当時のザ・ドリターズは歌もヒットしていました。

 

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「ズッコケちゃん」「ミヨちゃん」の小ヒットに続いて『8時だョ!全員集合』放映開始の頃は「ドリフのズンドコ節」が大ヒット!1970年の『日本レコード大賞』大衆賞を受賞しています。

 

正に!1969年から1970年代前半に、ザ・ドリフターズは第1期大ブームがを起こしたと言えます。

 

高視聴率で人気番組になった『8時だョ!全員集合』でしたが、一説には渡辺プロの独断で1971年4月から日本テレビ系列で『日曜日だョ!ドリフターズ!!』の放映が決定。

 

8時だョ!全員集合』は一度休止になり、この放送枠に同じ渡辺プロの先輩バンド、ハナ肇クレイジーキャッツの『8時だョ!出発進行』を『8時だョ!全員集合』と、ほぼ同じ形式でスタートさせています。

 

ハナ肇クレイジーキャッツザ・ドリフターズが人気になる前、ヒット曲含め一時代を築いておりましたが、1960年代後半になると、少し人気に翳りが出ていたのは否めない歴史。

8時だョ!全員集合』と同時期に放映が開始された日本テレビ系列の『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』で、ハナ肇氏はヒッピーファッションでの一言「あっ!と驚く為五郎」がバカ受けした事もあり、渡辺プロがハナ肇クレイジーキャッツの人気挽回を狙ったのが『8時だョ!出発進行』ではなかったのか?と私は思っております。

 

『8時だョ!出発進行』は最高視聴率は30%を超えたそうですが、平均視聴率は15%。少年だった私には、『8時だョ!全員集合』と違い、ピンとこないお笑いセンスだった記憶があります。

 

逆にザ・ドリフターズの『日曜日だョ!ドリフターズ!!』は、『ドリフのドパンチ!学園』同様、無茶苦茶!面白くて、少年は、時代の流れはハナ肇クレイジーキャッツからザ・ドリフターズに完全に変わった感を受けたものでした。

 

『8時だョ!出発進行』と『日曜日だョ!ドリフターズ!!』は放映終了、1971年10月からは再び!『8時だョ!全員集合』が放映再開、『ドリフのドパンチ!学園』も放映が終了しており、ここから!ザ・ドリフターズは「全員集合」一本に勝負をかけてきます。

 

8時だョ!全員集合』の視聴率は鰻登り!20%超えは当たり前!30%、40%とお化番組化し、遂には1973年4月には視聴率50%超えの、バラエティ番組ではいまだに破られてない記録を打ち立てています。

 

ところが!この人気絶頂時に、加藤茶氏に続く人気者になっていた荒井注氏が突如!脱退宣言。1974年3月に脱退。

 

荒井注氏はリーダーのいかりや長介氏より年上だった事もあり、ギャラの配分含め色々といかりや長介氏には思うところがあったようで、当時、加藤茶氏も「俺もやめようと思ってた」と述べていますから、人気絶頂とはいえ、グループ内では色々あったのでしょう。

 

いかりや長介氏は荒井注氏の代わりに、自身より1歳年上のミュージシャンで豊岡豊とスイング・フェイスバンドマスター豊岡豊氏をメンバーにしようと考えていたそう。

 

少年だった私も、別番組だったと記憶しておりますが豊岡豊氏といかりや長介氏の掛け合いは、とても面白かった記憶があり、即戦力と考えたなら荒井注氏の穴は豊岡豊氏で簡単に埋まったでしょう。

 

ところが加藤茶氏が「いかりやさん、やっぱり若い奴の方がいいよ」の一言で、いかりや長介氏の豊岡豊氏案は廃案になったそうで、この辺はメンバーの中で圧倒的!人気者だった加藤茶氏の影響力の大きさを感じさせます。

結局、付き人だった志村けん氏が加藤茶氏の推薦もあり抜擢され、後に第二期大ブームを巻き起こし、その後も志村けん氏はピンでも一時代を築いたわけですが、新加入当時の志村けん氏は全くウケなかった。

 

当時、少年だった石橋貴明氏も「こいつ面白くねーよ」と思ってたそうで、私もご多分に漏れずそう思っており、実はこの時期、ザ・ドリフターズはやや人気が低迷していました。

 

勿論、加藤茶氏の人気ぶりは相変わらずでしたが、思えば加藤茶氏は一度もスランプとか落ち目時がなく、コンスタントにザ・ドリフターズのお笑いの中心メンバーだったと言えます。

 

志村けん氏が「東村山音頭」で人気がブレイクするのは加入から2年も経った1976年であり、この間の志村けん氏の苦悩は、どんなものだったんでしょうね〜。

 

1976年と言えば、若き私は既にその前から土曜の夜に家でテレビを見てる良い子ではなくなっていたので、「あのつまんない新入り、今凄い人気なんだって?!」と驚いたものでした。

 

だから、私的に志村けん氏が面白い!最高!と思ったのは『8時だョ!全員集合』でではなく、志村けん氏がブレイクした後の、1977年からフジテレビ系列で放映開始された『ドリフ大爆笑』ででした。