黒い霧事件の渦中、1970年の稲尾新監督の西鉄ライオンズの厳しい投手事情!

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登板数40試合、11勝18敗、防御率5.14。

1970年、西鉄ライオンズの高卒プロ入り2年目の東尾修投手の、これが成績。 

前年、プロ野球界を震撼させた黒い霧事件で、西鉄ライオンズの若き大エースの池永正明投手が、1970年のシーズンに入ってから永久追放。

ローテーションピッチャーだった与田順欣投手、益田昭雄投手もシーズンに入ってから永久追放。

昨年永久追放になった永易将之投手含め、西鉄ライオンズはピッチャー不足になっちゃった。

なので、本来、あと何年か、二軍や一軍半で修行を積ませないといけない若いピッチャーに投げさせないと、西鉄ライオンズは試合にならない。

前年現役を引退、1970年より監督に就任した若き稲尾和久監督、目もあてられない船出になりました。

1969年に12勝13敗と頭角を表していた高卒3年目の河原明投手は、ローテーションとして最初から稲尾和久監督の頭にはあったでしょう。

池永・与田・益田・河原の4投手で、稲尾和久新監督はローテーションをまわそうとしてた事でしょう。

が!池永・与田・益田の3投手が、シーズン開始後に永久追放。

特に若き大エース池永正明投手は5月に永久追放になるまで、4勝してましたから、稲尾和久新監督は痛かったでしょうねー。

東尾修投手、河原明投手、三輪悟投手の3人で、1970年は136試合に登板!

というわけで残りの一人、河原明投手は1970年はローテーションの軸として51試合に登板、13勝19敗、防御率は4.18。

前年ドラフト2位指名の社会人ルーキー、三輪悟投手も1年目から45試合に登板、防御率は他の投手より圧倒的に良く2.91なれど、7勝14敗。

このプロ入り高卒2年目の東尾修投手、高卒4年目の河原明投手、社会人ルーキーの三輪悟投手の3人だけで、1970年は136試合に登板してます。

というか、他にピッチャーがいないから、ほぼ毎日この3人を登板させるしか、稲尾和久新監督は、他に戦術がたてられない。

更に1969年ドラフト8位の高卒ルーキー、柳田豊投手まで!20試合の登板で3勝6敗、防御率4.43。

西鉄ライオンズは1963年のリーグ優勝を最後に、5位、3位、2位、2位、5位、5位と低迷期に入っており、1970年もけっして優勝候補ではなかったとはいえ、、、

4月からシーズン終了まで、ずーっと最下位。

43勝78敗9分で、優勝したロッテ・オリオンズに34ゲーム差つけられ、1970年は最下位。

打線も助っ人のポインターアメリカの女性ソウルグループ、ポインターシスターズの兄)が22本、ボレスが28本とホームランを放ってますが、、、

3割バッターもいなければ、打撃トップ10に入るバッターもいない西鉄ライオンズ打線、チーム打率はリーグ最下位。

若き投手陣が、これほどボロボロながら、投手防御率東映フライヤーズより上回って5位なのは、ちょっと評価できるかなー?って感じですね。

プロ野球選手も、その時入った球団事情によって人生変わるよね〜 

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結果的に、特に東尾修投手は、この投手がいない状態が幸いして、失礼ながら出れば打たれるの若き頃のプロ経験を経、後に常勝西武ライオンズの貫禄ある大エースになられたわけですから、人生はわからない。

例えば1968年、読売ジャイアンツ に1位指名された高校生の島野修投手は、現役時代1勝しかできませんでしたが、もし西鉄ライオンズに指名されていたら、、、

ピッチャーがいないから、稲尾和久監督は白羽の矢をたて、先発で起用したかもしれない。

その結果の数字は、神のみぞ知るですが。

大学生の自分ではなく、高校生のその島野修投手を指名したことで、明大の星野仙一投手は激怒しましたが、星野仙一投手が中日ドラゴンズじゃなく、読売ジャイアンツに入団してたら、、、

もしかしたら、V9ジャイアンツ 真っ盛り、常勝の当時の川上監督、星野仙一投手を使わなかったかもしれない。

実際その翌年の1969年、ドラフト1位でとった早大のエース、小坂敏彦投手はジャイアンツ3年間の成績は7勝7敗で、トレードに出されてます。

小坂敏彦投手の早大時代の成績は、リーグ通算36試合登板、22勝6敗、防御率1.68、218奪三振

明大時代の1学年上の星野仙一投手は、23勝24敗、防御率1.91、199奪三振

小坂敏彦投手は、勝星こそ1つ星野仙一投手より少ないですが、同じ東京六大学リーグで、星野仙一投手より総合的には成績が良かったのに、川上哲治監督はあまり使わなかった。

だから、、、

ボクはプロ野球選手って、その時に入った球団の事情と、その時の監督やコーチの好き嫌いと方針で、人生変わると思うわけです。

ライオンズは、西武に買われてから劇的に強くなった!

で、当時の西鉄ライオンズに話を戻して、打ち込まれて負け投手になっても若い投手陣、揶揄中傷されなかったです。

野球ファンは、当時の西鉄ライオンズの投手陣の台所事情、わかってたからね。

1970年、高卒プロ入り2年目で、11勝18敗、防御率5.14なれどローテーションピッチャーになった東尾修投手、1971年には51試合、1972年にも55試合登板。

各々8勝16敗、18勝25敗と、稲尾ライオンズ3年連続最下位の、失礼ながら象徴のような成績で、東尾修投手はこの3年で、通算37勝59敗でした。

が、、、

まだ二十歳そこそこの、若き東尾修投手を揶揄中傷する風評はなく、むしろ稲尾監督の「若き東尾酷使」は「いかがなものか?」と、監督に批判が集まってました。

というわけで、そんな落ち目の三度笠になった西鉄ライオンズが、1979年に西武に買われ、常勝チームに蘇るなんて、当時は夢にも思わなかったですから、人生はつくづくわからないものだと思う次第。

ちなみに、これだけ負け数が上回ってた東尾修投手、最後は251勝247敗と、勝ち数が上回って現役を終了してますから、凄いもんです!