「闘将!江藤慎一」 1960年代、ジャイアンツのONの正真正銘のライバルだった男の、数奇な野球人生、、、


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読売ジャイアンツ東映フライヤーズで長年監督をつとめ、セリーグパリーグで優勝経験もあり、全てAクラス入りを果たしていた名将!水原茂氏が、中日ドラゴンズの監督に就任したのは1969年の事。

漫画、アニメでお馴染み「巨人の星」で、星一徹アームストロング・オズマの子弟コンビが活躍したのがこの年ですね。

が、水原茂氏は監督として初めてのBクラス、屈辱的なチーム4位という成績でその年を終えた水原監督は大鉈を振るいます。

同年シーズンオフに、中日ドラゴンズ、いや、ON砲=王貞治氏、長嶋茂雄氏と並び称された、当時のセリーグを代表する強打者!(首位打者2回)、中日の4番、江藤慎一氏にトレード勧告。

まあ、ナインを代表して、水原監督の強烈な「しごき」に抗議に行ったのを恨まれたようです。

江藤慎一氏は「中日の江藤」で終りたいとトレードを拒否。未だ32歳だったのに、一時は引退に追い込まれてしまい、これ当時かなりのニュースになりました。

が、プロ入り前の社会人野球在籍時の監督だった濃人渉氏が、ロッテオリオンズの監督に就任した事によって、江藤氏は球界に復帰(結果的に交換トレード)。

シーズン途中からの復帰でしたが、江藤慎一氏は、オリオンズの10年ぶりの優勝に貢献しました。

パリーグに移籍して、セパで首位打者に輝いた江藤慎一氏!

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リーグ優勝したオリオンズの強力打線の一角として、江藤慎一氏は再び名声を得る一方、江藤氏をトレードにだした水原茂監督の中日ドラゴンズは、昨年に続き1970年も、Bクラスの5位。

なので当時の野球ファンは、江藤氏をトレードにだした水原監督と中日球団に、やはり「何故?」と思いましたよねー。

更に!1971年は、江藤慎一氏はシーズンを通して活躍し、堂々!パリーグ首位打者に輝き、当時セパ両リーグで首位打者に輝いたのは、江藤氏唯一人だけでした。

そんな江藤慎一氏をトレードに出した水原茂氏は、3年目は中日ドラゴンズを2位まで押し上げましたが、この年限りで監督を辞任。当時、それまでの輝ける名将としての名声をかなり地に落としたような記憶が、ボクはあります。

ところが、江藤慎一氏の波瀾万丈の球史はここで終らず、1971年、球界復帰の恩人だった監督の濃人渉氏が放棄試合をした責をとらされ、シーズン半ばで二軍監督に降格。

代わって大沢啓二二軍監督が、一軍監督に昇格してまた江藤慎一氏の人生が変わります。

経費削減で、再びトレードに出された江藤慎一

 


チームは監督交代前からの2位のままシーズンを終えるも、正式に新監督になった大沢氏は、何と!首位打者を獲得した江藤氏はじめ、.301のロペス、ベテランの榎本氏の主砲を、トレードで放出しちゃったんですねー。

まあ、大沢新監督の守りと機動力を全面にだしたチーム作りに、江藤氏はあわなかったって建前ですが、、、

1970年にリーグ優勝した事で選手の年棒もあがり、71年も優勝争いの2位ですから、選手の減俸理由も見つからないし、ましてや江藤氏は首位打者

そして、江藤氏と首位打者を最後迄争っていたのも、ロッテのアルトマン(結果3位)。

この年は名物オーナーで有名だった大映の永田ラッパ=永田雅一氏が、球団経営から身を引き(同年、大映倒産)、共同経営だったロッテが1社で球団を受け継いだ年でした。

なので、おそらく、球団経営の経費削減の為に、年棒の高い江藤慎一氏は首位打者を獲得したのに、同じく年俸の高いロペスと榎本氏と共にトレードにだされたのでしょう。

江藤慎一氏と交換トレードで獲得した、大洋ホエールズ在籍時3年で5勝だった野村収氏は、1972年に見事に14勝と大化けしましたが、頼みの「小山、成田、木樽」の投手三本柱が不調で、チームは開幕4月からずーっとBクラスに低迷。

結果は5位で、シーズン終了と同時に、ロッテの経費削減=リストラ計画に貢献したのに大沢監督は、あえなく解雇されています。

ロッテは当時、倒産した大映から本拠地の東京球場の買い取りも拒んでいたので(結果、東京球場解体。ロッテは本拠地球場のないジプシー球団になる)、球団経営が素人だったというか熱意がなかったというか、、、

その後韓国でロッテ財閥を一代で築く事になるロッテのオーナー、重光武雄こと在日朝鮮民族辛格浩氏、大沢監督にも冷淡でしたねー。

再びパリーグに戻った江藤慎一氏は、監督兼任!

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一方、大洋ホエールズにトレードされた江藤慎一氏も、2年ぶりのセリーグでも再び大洋の4番をつとめ活躍。

3年間、大洋ホエールズでも主砲をつとめた後、故郷の九州を本拠地とする太平洋クラブライオンズに、監督兼選手として招かれ(結果、交換トレードなれど)、再びパリーグ江藤慎一氏は移籍しました。

豪快に打ち勝つ野球=山賊野球をキャッチフレーズにした江藤慎一監督兼選手の下、1975年のライオンズは8年ぶりのAクラスの3位。

近鉄バファローズから移籍した「無冠の帝王」=土井正博氏が見事に本塁打王に輝き、日本ハムファイターズから移籍した白仁天氏も首位打者を獲得。エース東尾修氏は最多勝と、素晴らしい1年でした。

江藤慎一監督兼選手は、1年目にして成果をあげたようにみえましたが、シーズン終了後、球団はアメリカから名将と呼ばれる監督を招聘する事を決め、江藤氏は監督兼選手から選手兼打撃コーチとされる事に立腹。

再びチームを退団してしまいます。

大沢氏のあとロッテの監督になり、監督2年目に再びリーグ優勝、日本シリーズでも中日ドラゴンズを下し日本一に輝いた、当時は監督になっても時の人だった金田正一監督に誘われ、再び1選手として江藤慎一氏は、ロッテオリオンズに復帰。

波乱の野球人生の江藤慎一氏でししたが、その1976年のシーズン途中で年齢的な事もあり、引退しました。

そんな江藤慎一氏のいなくなった太平洋クラブライオンズは結局、そのアメリカの名将が来日前に体調不良で契約を破棄し、ヘッドコーチだった鬼頭政一監督が急遽監督になりましたが、結果は最下位。

水原氏も大沢氏もしかりでしたが、江藤慎一氏を追い出した後の監督はロクな成績を残しておりませんでしたが、緊急昇格でしたが鬼頭監督もまた、結局2年連続最下位という結果の元辞任しました。

最後になりますが、江藤慎一氏の通算本塁打数は367本。

中日ドラゴンズの歴代最高本塁打数は、宇野勝氏の334本で、通算打点は立浪和義氏の1037が最高で、江藤慎一氏は1189打点。

通算安打も立浪和義氏の2480本で、江藤慎一氏は通算2057安打。

ちなみに、江藤慎一氏の背番号8を譲り受けた谷沢健一氏は球団歴代2位の969打点。通算安打は歴代3位の2062安打で、本塁打は歴代4位の273本。

もしも!水原氏が江藤慎一氏をトレードに出さなければ、江藤慎一氏はMr.ドラゴンズとして、今よりも名声の残る野球人生を歩んでいたと思うオールドファンは、ボクだけでしょうかしらねー。