キャロルのラストシングル「ラストチャンス/変わりえぬ愛」での、作詞:ジョニー大倉、作曲:矢沢永吉コンビは、久しぶりの復活だった!

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長〜い音楽人生で、矢沢永吉氏が最も他人様に譲歩した年だったと思う、キャロル時代の1974年。

矢沢永吉氏がその後ソロになり、自分は「ボス」で、スタジオ録音もライブも、ミュージシャンは国内外問わず、全て自分のサポートメンバーという音楽スタイルを貫いてる理由は、、、

このキャロル時代の1974年の苦悩だと、私は勝手に思ってます。

キャロルを、1972年末のシングル「ルイジアンナ」デビューから、1973年夏のアルバム「ファンキー・モンキー・ベイビー」の8ヶ月で、シングル7枚、アルバム2枚も発表した時期を「前期」として、、、

この後1974年末のラストシングル「ラストチャンス」迄の、約1年4ヶ月の間では、うって変わってシングルはたったの3枚、オリジナルアルバムは僅か1枚しか発表してない時期を「後期」。

そして1975年の解散ライブ後、売れまくった「解散後」に分けて考えると、キャロルの歴史って後世の人もわかりやすいと私は思ってます。

ジョニー大倉氏の著書によると、ライブをやりながらの「前期」の毎月1枚発表し続けた、A面B面2曲の作詞に、相当苦労したそう。

で、シングル第7弾「ファンキー・モンキー・ベイビー」が、初めて小ヒットし、ソレなりの印税が入った事でジョニー大倉氏はホッとして、遊びたくなり休みたくなったとか。

当時二十歳の若者だったジョニー大倉氏の、この気持ち、わからないでもない男、多いと思います。

だから、、、

普通、常識で考えて、どんなバンドでも歌手でも、一発そこそこのヒットがやっと出たら、その次のシングルは、その熱気が冷めないうちにすぐ!出すものです。

が、そういう事情でキャロルは1973年のこの年、やっと!「ファンキー・モンキー・ベイビー」が小ヒットしたのに、下半期は1枚もシングルを発表してません。

ここが矢沢永吉氏、最初の妥協だったと思います。

業界の常としても、イケイケドンドンの矢沢永吉氏の性格からいっても、「今のうちに」次のシングルを、レコード会社も矢沢永吉氏も、出したくてしょうがなかったと思います。

が、作詞担当のジョニー大倉氏がこれでは、出すに出せない。

おそらく当時、矢沢永吉氏も「ジョニーちゃんの言い分もわかるよね。じゃあ、ちょっと休もうか」と、バンドリーダーとして妥協し、オリジナルレコードの発表をシングルもアルバムも控えたのでしょう。

ところが、ライブ活動に専念してるそんな最中、ジョニー大倉氏の失踪事件が起きます。

契約の関係だったのでしょうか?結局この年1973年の下半期は、ジョニー大倉氏がまだ在籍時の、テレビ局でのライブ音源を収録した、アルバム「ライブ・イン リブ・ヤング」1枚だけキャロルは発表。

既に失踪してるジョニー大倉氏も、ジャケットには写ってますが、この頃のキャロルは、トリオでライブ演奏をしてました。

そしてその映像を、後にキャロルの版権全てを手にした矢沢永吉氏が、2003年に自ら編集したCD「キャロル ザ★ベスト」の、おまけ映像に使った時、ボクはマジで背筋が寒くなりました。

3人キャロル時代の映像と音源をみせた、矢沢永吉氏の心


キャロルがここまで発表した、シングルAB面14曲のうちの8曲、なんと半分以上がジョニー大倉氏がメインボーカルをとってる曲。

R&Rカヴァーも、ジョニー大倉氏のメインボーカルだった曲は多いので、おのずとジョニー大倉氏のいないキャロルは、演奏できる曲が限られてしまう。

それに、そもそもキャロルの魅力の1つは、コーラスにもあったのに、その一角を担うジョニー大倉氏がいない。

で、キャロルサウンドのもう1つの魅力は、2本のギターサウンド

キャロルはギターバンドでもあったので、この当時、一人でギターを担当した内海利勝氏、大変だったと思います。

また、ソロになってからその「こだわり度」は誰でもご承知だと思う、矢沢永吉氏の「サウンドクリエイター」ぶり、、、。

その矢沢永吉氏にとって、トリオのキャロルサウンド

仕事でやり続けるしかなかったとはいえ、納得いかなかったと思います。

で、その納得いかなかったであろう音源と映像を、わざわざ自身が編集したキャロルのベストアルバムの「特典」につけた、矢沢永吉氏の心を思うと、、、

ジョニー大倉氏が、どれだけキャロル再結成を望んでも、矢沢永吉氏は、ジョニー大倉氏とは二度と仕事はしないと、この時!私は確信しましたね〜。

更に、、、

ジョニー大倉氏が、キャロル時代の思い、当時の矢沢永吉氏に対する思い、そして矢沢永吉氏の著書や発言では触れられてなかったキャロル時代の逸話を綴った「キャロル夜明け前」を、2004年に出版したのも、原因はこの映像だったと私は思ってます。

で、キャロル現役時代に話しを戻し、遂に1974年になり、矢沢永吉氏は失踪中のジョニー大倉氏を解雇。

サミー猿山氏を後任メンバーと正式に発表しますが、短期間でこの決定を覆し、ジョニー大倉氏を復帰させてます。

これが私が思う、当時の矢沢永吉氏の二度目の妥協。

作詞家としてのジョニー大倉氏、グルーヴィングでキレのあるリズムギターを得意とするギタリスト、ジョニー大倉氏。

そして主旋律を歌ってよし、ハモってよしのシンガー、ジョニー大倉氏の才能は、キャロルに絶対不可欠と「サウンドクリエイター矢沢永吉」が、これは決めた妥協でしょう。

あと、山本寛斎氏のパリのファッションショーにキャロルは呼ばれていたし、その映像含め、当時、キャロルのドキュメンタリー映画が撮影されていたので、ジョニー大倉氏を戻した方が、キャロルにも自分にも得策だという計算も、矢沢永吉氏にはあったと思います(良い意味で)。

で、1974年2月に発表された、なんと!「ファンキー・モンキー・ベイビー」の小ヒット以来、7ヶ月強ぶりになるシングル「涙のテディボーイ」をキャロルは、やっと!発売。

が、ジャケットにジョニー大倉氏は写ってませんし、この曲は矢沢永吉氏初の!作詞も手がけた、作詞作曲:矢沢永吉作品。

矢沢永吉氏、初の!公式作詞曲が、この「涙のテディボーイ」なんですねー。

で、おそらく多分「涙のテディボーイ」のレコーディングに、私はジョニー大倉氏は参加してなかったと思ってます。

勿論、そういう公式発表、発言はありませんが、それまでの楽曲と違い、これが!ジョニー大倉氏の声、これがジョニー大倉氏のギターと、絶対的に確信できる音が私には聴こえないので。

これは私が勝手にそう思ってるだけですが、スタジオ盤「涙のテディボーイ」を聴いて、その後、日比谷野音の解散ライブ盤を聴くとわかります。

解散ライブ盤では、はっきり!ジョニー大倉氏のハーモニーが聴き取れます。

ジョニー大倉氏の声というのは、ソレほど特徴があり個性的なのに、スタジオ盤で、これがジョニー大倉氏の声だ!とわかる声、私は聴こえないんですよ。

で、、、

「涙のテディボーイ」のB面の「番格ロックのテーマ」は、作詞:大倉洋一、作曲:矢沢永吉で、メインシンガーはジョニー大倉氏です。

が、この曲は前年1973年9月に公開された、まだジョニー大倉氏が失踪する前に、東映で公開された映画の主題歌で(キャロルも出演してます)、音源はその時、録音されたものを使用してるのでしょう。

解散決定した頃のキャロルは、今も謎が多い!!

C

 

そしてジョニー大倉氏が完全復帰し、山本寛斎氏のパリのファッションショーにも同行。

映画「キャロル」も撮影快調、キャロルは元に戻ったようにも思えました。

が、スケジュールも忙しかったのでしょう、次のシングル「夏の終わり」も、また5ヶ月以上も時間が空いてます。

そして、何と!この曲もまた作詞作曲:矢沢永吉氏で、B面は内海利勝氏の作品「泣いてるあの娘」。

ジャケットにはジョニー大倉氏が、こちらはしっかり写ってますが、私は「夏の終わり」のレコーディングにも、ジョニー大倉氏は参加してないんじゃないか?と、今も疑惑を抱いてます。

こちらも、そういう公式発表はありませんし発言もないですが、、、

ジョニー大倉氏の音と思えるギターは聴こえないし、ジョニー大倉氏の声とわかる声が私はいまだに確認できないので、私が勝手に思ってるだけですが。

 

ちなみに、ジョニー大倉氏がソロでキャロルの曲をセルフカバーしたアルバムにおいて、シングル発売された「涙のテディボーイ」と「夏の終わり」は、矢沢永吉氏の許可が取れなかったのでしょう、収録されていません。

で、シングル「夏の終わり」と同時期に、キャロル久々1年ぶり!オリジナルアルバム「キャロル・ファースト」が発表されるわけです。

キャロル解散間際に!作詞:大倉洋一、作曲:矢沢永吉コンビが復活してた謎、、、 

が、、、

このアルバム、内海利勝氏、ユウ岡崎氏の楽曲しかり、矢沢永吉氏とジョニー大倉氏は各々で作詞作曲をやり、自分の曲は自分で歌っており、、、

作詞:大倉洋一、作曲:矢沢永吉コンビは、ここでも復活してません。

結果「キャロル・ファースト」は売れなかったし、今このアルバムを語る自称「昔からのキャロルファン」に、ボクは会った事がないほど(笑)、このアルバム、あまり知られてない。

そして、シングル「涙のテディボーイ」「夏の終わり」も、ファンには今も根強い人気曲ですが、リアルタイムは「ファンキー・モンキー・ベイビー」ほど売れなかった。

そして、、、

そんな妥協、妥協の矢沢永吉氏に1974年末、待っていたのは、ジョニー大倉氏によるキャロル解散要求。

矢沢永吉氏がこの頃、3つ年下のジョニー大倉氏に対し、どんな感情を抱いていたか?推して知るべしですね。

そして、ここがまたキャロルの不思議、、、

解散決定したキャロルのラストシングル「ラストチャンス/変わりえぬ愛」は、AB面、あの!作詞:大倉洋一、作曲:矢沢永吉が、久々に復活してる事。

これは後に英語版のデモテープやライブ音源、未発表曲を集めた、解散ライブ直後に発表されたアルバム「グッド・バイ・キャロル」の、B面最後にも収録してる「緊急電話」。

こちらも作詞:大倉洋一、作曲:矢沢永吉だったのも、実に不思議です。

例えば、ジョニー大倉氏復帰後、一度も!作詞:大倉洋一、作曲:矢沢永吉を復活させず、キャロル解散だったら、さもあらんという感じなのですが、、、

解散間際、解散発表頃、こうしてジョニー大倉氏は、また、矢沢永吉氏の楽曲に詞をつけてるんです。

まぁ〜、、、

同じく「グッド・バイ・キャロル」に収録してある、後に矢沢永吉氏がソロアルバムに「雨のハイウェイ」「恋の列車はリバプール発」として発表される2曲。

矢沢永吉氏得意の、適当英語詞で収録されてる、当時の曲名は「捨てたはずのコイン」「ドライヴィング・スクール」。

これは完全な私の憶測ですが、おそらくあのままジョニー大倉氏が解散要求しなければ、「捨てたはずのコイン」「ドライヴィング・スクール」には、ジョニー大倉氏の詞が使われ、キャロルの曲として発表されたでしょう。

ジョニー大倉氏は、山のようにある矢沢永吉氏の、適当出鱈目英語の楽曲に、日本語詞をつけ続けるプレッシャーに押し潰され、失踪してるので、、、

(あ〜また元の木阿弥だ。また最初に戻っちゃった)

と思ったから、ジョニー大倉氏は、キャロルの解散を求めたのかな?なんて、ファンとして勝手に私は想像してます。

で、キャロル解散を止めようとした矢沢永吉氏も、もはやこれまでとなったら即!、キャロル在籍時に、ジョニー大倉氏に代わる「得意ではない」作詞担当者探しをはじめ、旧知の仲の相沢行夫氏に白羽の矢を立てます。

ビジネスマンであり、クリエイターでもある矢沢永吉氏の、ここが凄いところ。

ファーストソロアルバム「アイラブユーOK」で、「捨てたはずのコイン」を「雨のハイウェイ」、「ドライヴィング・スクール」を「恋の列車はリバプール発」として発表した時の作詞は、ともに相沢行夫氏。

そしてこのアルバム全12曲中7曲、作詞は相沢行夫氏が行っています。

作詞家:矢沢永吉を評価してない、クリエイター矢沢永吉氏の凄み



そしてこれも「成り上がり」に書かれてましたが、解散ライブツアーをやろうという矢沢永吉氏に対し、他のメンバーはそれを拒否していたそうです。

ですから、もし、ここでも矢沢永吉氏が妥協してたら、あの!キャロルが「伝説」になった日比谷野音でのライブはなかったわけです。

正直、あれで!キャロルのレコードは、解散してから売れたので、あれをやらなかったら今のキャロル伝説はなかった。

なので、ここだけは!妥協しなかった矢沢永吉氏の「勘」は、やはり鋭いと言えます。

で、ジョニー大倉氏の著書にもありましたが、キャロルのレコードが、初めて爆発的に売れたのは、解散決定後の1974年末に発売された「キャロル・ゴールデン・ヒッツ」という二枚組のベストアルバム。

勿論、あの!4月の伝説の日比谷野音でのラストライブの映像が、夏にTBS「ぎんざNOW!」で放映されてから、前出の「グッド・バイ・キャロル」とラストライブアルバムとともに、売れに売れたわけですが、、、

ここで、後に矢沢永吉氏が激怒する、解散後とはいえ遂に!商売になりだしたキャロルの音源を、レコード会社はジャケットを変え、カップリングを変えシングル発表したり、似たようなベストアルバムをまた発表。

矢沢永吉氏がこれに抗議しても、契約書はそうなってると突っぱねられたことが、この後の矢沢永吉氏の頑な「権利」絶対思考になるわけです。

ですから、その後の矢沢永吉氏の方向性、思考言動は、全て!良くも悪くものこのキャロル時代の経験が元になってるわけです。

で、時は流れ、、、

2012年、矢沢永吉氏は横浜・日産スタジアムでのライブで、キャロル時代の盟友、内海利勝氏をゲスト出演させてますが、結局、矢沢永吉氏はジョニー大倉氏が亡くなるまで、共演はありませんでした。