石坂浩二氏演じた金田一耕助、横溝正史原作映画は1970年代後半大ブームだった!

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1976年から1979年までの間、5作も製作発表された横溝正史原作の人気シリーズ、金田一耕助もの。

 

全5作、監督は全て!市川崑監督。金田一耕助を演じた石坂浩二氏。役名は橘、橘、等々力と変わってますがマヌケな刑事役を演じた加藤武氏が、共に全5作に出演しています。

 

加藤武氏は既に1960年代より名優でしたが、1973~1974年の東映仁義なき戦い」シリーズで重要な役所の打本組組長を演じ、一時代を築いての後のこのマヌケな刑事役も、大当たりでした。

 

更に、全て地道な役どころでしたが全5作に出演しているのが、ベテランの大滝秀治氏、三木のり平氏、小林昭二氏。

 

女優では唯一!草笛光子さんが全五作に出演しており、なかなか脇が私なんかより年上の方には、心惹かれる配役だったと思います。

そして第一作目の「犬神家の一族」は、角川映画の記念すべき第一弾で、オールスターキャストで莫大な宣伝費をかけても、原作の本が売れ映画もヒットすれば十分にペイできる事を世に示した映画と言えます。

 

犬神家の一族」は1976年の映画興行収入で、邦画では「続・人間革命」に次ぐランキング2位の大ヒット!洋画の「オーメン」よりもランクは上でしたから、凄いヒットでした。

 

そんなわけで第一作目は配給だけでしたが、映画の大ヒットにより第二作目から第五作目までは製作も請け負った東宝

 

映画会社も商売ですから、儲からない大赤字覚悟の冒険はしませんから、どれだけ「犬神家の一族」が当時の大ヒットが、凄い現象だったか?後世の方も、推して知ってくださいませ。

 

で、元々、金田一耕助作品の映画化は東映が得意で、片岡千恵蔵氏等が演じていましたが、その金田一耕助を10数年ぶりに復活させたのは、角川より先にATG!

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犬神家の一族」の1年前の1975年に、中尾彬氏が金田一耕助を演じた「本陣殺人事件」で、こちらの「本陣殺人事件」の小ヒットが、「犬神家の一族」の良いプロモーションになってたような記憶が、私はあります。

 

そして1970年代後半、一大ブームを巻き起こした東宝金田一耕助シリーズの間に、松竹が渥美清氏に金田一耕助を演じさせた「八つ墓村」を1977年に発表しています。

 

そして「八つ墓村」は1977年の映画興行収入ランキングで、邦画では「八甲田山」、角川映画第二弾「人間の証明」に次ぐ大ヒットしています。

 

何と!同年2本も上映された、東宝石坂浩二氏の金田一耕助シリーズ第二弾「悪魔の手毬唄」、第三弾「獄門島」より、松竹の「八つ墓村」の興行収入が圧勝する事件が起きています。

 

が、しかし、渥美清氏はやはり!フーテンの寅さんイメージがあまりに強いので、渥美清氏演じる金田一耕助の台詞回しに、寅さんを感じてしまったのは、私だけではなかったのではないでしょうか?

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結局、1978年の第四弾「女王蜂」、1979年の第五弾「病院坂の首縊りの家」も、「犬神家の一族」を上回る大ヒットには至らずも、それなりの興行収入は上げていたし、話題にもなっていました。

 

また、本家!東映もブームの乗って1979年に「悪魔が来りて笛を吹く」を発表。なんと!金田一耕助ブームを作った角川春樹氏が、プロデューサーとして東映に雇われて製作して映画。

 

で、金田一耕助役を投影は西田敏行氏に演じさせますが、こちらも良い映画でしたが、松竹の渥美清氏同様、太めの金田一耕助というのは、どうなの?って感じでしたが、こちらもそこそこヒットしています。

 

悪魔が来りて笛を吹く」と同じ1979年に、東映は再び「金田一耕助の冒険」を発表しますが、今度の金田一耕助古谷一行氏。

 

古谷一行氏演じる金田一耕助は既にテレビでお馴染みで、古谷一行氏は映画よりも松本清張作品のテレビドラマ化と共に、テレビの金田一耕助役で一時代を築いたと言えます。

 

1981年の「悪霊島」では鹿賀丈史氏に金田一耕助を演じさせており、この作品が当時の横溝正史作品、金田一耕助モノの最終作品だと記憶しておりますが、随分と短期間で沢山作られてますね〜。

 

と!ここまで書いていて今更ですが、横溝正史作品、金田一耕助シリーズは全部観てますが、実は私はあまり好きではないです(汗)。

 

だいたい、その事件に関連する一族の血筋、血脈が事件解決の糸口になってるので、役所で謄本調べてみたらみたいなオチが、なんとも名探偵の仕事と思えなくてね(笑)。

 

まぁ〜このへんは刑事コロンボ名探偵ポワロ好きなので、好みの問題という事で、横溝正史作品、金田一耕助ファンの方は、ご容赦くださいませ。

 

 

ザ・ドリフターズは1960代後半から!大人気だったのですよ♪

 

ザ・ドリフターズ志村けん氏の話題が、世代を超えて誰でも話が合い、また話が盛り上がると思う爺です。

 

空前のグループサウンズブームが終焉に向かいだした1969年10月、かの有名な!TBS系列の『8時だョ!全員集合』のテレビ放映が開始しています。

 

ザ・ドリフターズはそれ以前より、既にお茶の間の人気者で、日曜昼の人気のお笑い番組大正テレビ寄席』等にもコミックバンドとして出演したり、単発のテレビショーも多々ありましたし、自らのレギュラー番組も幾つも持っていました。

 

グループサウンズブームの頃、ザ・ドリフターズもバンドでしたからグループサウンズとの共演も多く、少年だった私はザ・スパイダースのフロントの人気者、堺正章氏と井上順氏、そしてザ・ドリターズの加藤茶氏は特に大好きで、腹を抱えて笑っていました。

 

アメリカのグループのテレビ「ザ・モンキーズ」も人気で、当時、少年だった私はバンドというのは「笑い」のセンスのある人たちがやるものと、本気で!思っていました。

 

そんな人気のザ・ドリフターズは当時、コント55号と双璧の人気者で、後のメンバーになる志村けん氏もザ・ドリフターズコント55号のどちらに弟子入りしようか迷っていたと述べていました。

 

結局、音楽好きの志村けん氏はコミックバンドという事で、ザ・ドリフターズに決めたそうで、そのザ・ドリターズの人気に更に!拍車がかかったのが、この『8時だョ!全員集合』だったのは間違いないでしょう。

 

翌1970年の春には、日本テレビ系列で『ドリフのドパンチ!学園』も放映開始され、テレビのレギュラー番組が2本になり、以前より日劇浅草国際劇場での単独ショー始め、地方公演の仕事もしており、かなりザ・ドリフターズは多忙な日々を送っていたと思われます。

 

ザ・ドリフターズのメンバーは控えめに「歌はヒットしなかった」と証言していますが、それは先輩バンドのザ・クレイジーキャッツ植木等氏に比べてという意味なのでしょうか?実際に当時のザ・ドリターズは歌もヒットしていました。

 

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「ズッコケちゃん」「ミヨちゃん」の小ヒットに続いて『8時だョ!全員集合』放映開始の頃は「ドリフのズンドコ節」が大ヒット!1970年の『日本レコード大賞』大衆賞を受賞しています。

 

正に!1969年から1970年代前半に、ザ・ドリフターズは第1期大ブームがを起こしたと言えます。

 

高視聴率で人気番組になった『8時だョ!全員集合』でしたが、一説には渡辺プロの独断で1971年4月から日本テレビ系列で『日曜日だョ!ドリフターズ!!』の放映が決定。

 

8時だョ!全員集合』は一度休止になり、この放送枠に同じ渡辺プロの先輩バンド、ハナ肇クレイジーキャッツの『8時だョ!出発進行』を『8時だョ!全員集合』と、ほぼ同じ形式でスタートさせています。

 

ハナ肇クレイジーキャッツザ・ドリフターズが人気になる前、ヒット曲含め一時代を築いておりましたが、1960年代後半になると、少し人気に翳りが出ていたのは否めない歴史。

8時だョ!全員集合』と同時期に放映が開始された日本テレビ系列の『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』で、ハナ肇氏はヒッピーファッションでの一言「あっ!と驚く為五郎」がバカ受けした事もあり、渡辺プロがハナ肇クレイジーキャッツの人気挽回を狙ったのが『8時だョ!出発進行』ではなかったのか?と私は思っております。

 

『8時だョ!出発進行』は最高視聴率は30%を超えたそうですが、平均視聴率は15%。少年だった私には、『8時だョ!全員集合』と違い、ピンとこないお笑いセンスだった記憶があります。

 

逆にザ・ドリフターズの『日曜日だョ!ドリフターズ!!』は、『ドリフのドパンチ!学園』同様、無茶苦茶!面白くて、少年は、時代の流れはハナ肇クレイジーキャッツからザ・ドリフターズに完全に変わった感を受けたものでした。

 

『8時だョ!出発進行』と『日曜日だョ!ドリフターズ!!』は放映終了、1971年10月からは再び!『8時だョ!全員集合』が放映再開、『ドリフのドパンチ!学園』も放映が終了しており、ここから!ザ・ドリフターズは「全員集合」一本に勝負をかけてきます。

 

8時だョ!全員集合』の視聴率は鰻登り!20%超えは当たり前!30%、40%とお化番組化し、遂には1973年4月には視聴率50%超えの、バラエティ番組ではいまだに破られてない記録を打ち立てています。

 

ところが!この人気絶頂時に、加藤茶氏に続く人気者になっていた荒井注氏が突如!脱退宣言。1974年3月に脱退。

 

荒井注氏はリーダーのいかりや長介氏より年上だった事もあり、ギャラの配分含め色々といかりや長介氏には思うところがあったようで、当時、加藤茶氏も「俺もやめようと思ってた」と述べていますから、人気絶頂とはいえ、グループ内では色々あったのでしょう。

 

いかりや長介氏は荒井注氏の代わりに、自身より1歳年上のミュージシャンで豊岡豊とスイング・フェイスバンドマスター豊岡豊氏をメンバーにしようと考えていたそう。

 

少年だった私も、別番組だったと記憶しておりますが豊岡豊氏といかりや長介氏の掛け合いは、とても面白かった記憶があり、即戦力と考えたなら荒井注氏の穴は豊岡豊氏で簡単に埋まったでしょう。

 

ところが加藤茶氏が「いかりやさん、やっぱり若い奴の方がいいよ」の一言で、いかりや長介氏の豊岡豊氏案は廃案になったそうで、この辺はメンバーの中で圧倒的!人気者だった加藤茶氏の影響力の大きさを感じさせます。

結局、付き人だった志村けん氏が加藤茶氏の推薦もあり抜擢され、後に第二期大ブームを巻き起こし、その後も志村けん氏はピンでも一時代を築いたわけですが、新加入当時の志村けん氏は全くウケなかった。

 

当時、少年だった石橋貴明氏も「こいつ面白くねーよ」と思ってたそうで、私もご多分に漏れずそう思っており、実はこの時期、ザ・ドリフターズはやや人気が低迷していました。

 

勿論、加藤茶氏の人気ぶりは相変わらずでしたが、思えば加藤茶氏は一度もスランプとか落ち目時がなく、コンスタントにザ・ドリフターズのお笑いの中心メンバーだったと言えます。

 

志村けん氏が「東村山音頭」で人気がブレイクするのは加入から2年も経った1976年であり、この間の志村けん氏の苦悩は、どんなものだったんでしょうね〜。

 

1976年と言えば、若き私は既にその前から土曜の夜に家でテレビを見てる良い子ではなくなっていたので、「あのつまんない新入り、今凄い人気なんだって?!」と驚いたものでした。

 

だから、私的に志村けん氏が面白い!最高!と思ったのは『8時だョ!全員集合』でではなく、志村けん氏がブレイクした後の、1977年からフジテレビ系列で放映開始された『ドリフ大爆笑』ででした。

 

 

 

カーペンターズの「ナウ・アンド・ゼン」のB面と、映画「アメリカン・グラフィティ」の映像と音楽が、1970年代に起きたオールディーズブームの発端だった!

 


イギリスには、元々R&R好きのロッカーズが存在していましたし、1970年代からグラムロックやR&Rリバイバルムーヴメントを経由し、パンクムーブメントになっていました。

なので、ちょっと日米のオールディーズ、50'sムーブメントとイギリスは異なります。

というわけでR&R好きの少ない日本で、マニアックなファン達にはバカ受けした、1970年代半ばから後半に起きた、オールディーズ、50'sムーブメントを、今日は真面目に!検証してみたいと思います。

まず、ことの起こりは、1970年代初頭、日本でも人気絶頂だった!カーペンターズ

1973年、発表されたアルバム「ナウ・アンド・・ゼン」。

なんと!このアルバムから「シング」「ジャンバラヤ」「イエスタディ・ワンス・モア」と、シングルヒットが3曲もシングルヒット。

アルバムは、本家アメリカではビルボード最高位2位だったのに、日本のオリコンでは1位!!

当時、日本で一番人気のあった洋楽は、解散したザ・ビートルズでもなけりゃー、ザ・ローリング・ストーンズでもなく、ディープ・パープルでもなくレッド・ツエッペリンでもなく、「カーペンターズである!」と、ボクは断言し続けてます。

で、事件は(笑)、正にシングルカットされた「イエスタディ・ワンス・モア」から始まり、「イエスタディ・ワンス・モア」のリプライスで終わる、B面のオールディーズのカヴァー集!!

これが、アメリカでは、この後!無名のジョージ・ルーカスが発表した映画「アメリカン・グラフィティ」の、プロモーションに、大いに!貢献してます!

無名監督と無名俳優ばかりの、古のアメリカの若者の1日を描いた映画「アメリカン・グラフィティ」の衝撃!!

カーペンターズのアルバム「ナウ・アンド・ゼン」が、アメリカでリリースされたのが、1973年5月。

映画「アメリカン・グラフィティ」が、アメリカで公開されたのは1973年8月。

正に!「ナウ・アンド・ゼン」のB面メドレー、「イエスタディ・ワンス・モア」の実写版だったのが、映画「アメリカン・グラフィティ」だったわけです。

アメリカン・グラフィティ」初公開時のキャッチフレーズは「Where were you in '62?」。「1962年の夏、あなたはどこにいました?」。

平成の31年を終え、令和を今生きてる今にして思えば、1973年現在、たかが11年前のアメリカの音楽、ファッション、車、文化が、信じられないほど古く、そしてそれが逆に「新しく」感じた、1962年という時代の凄さ、、、。

1962年の夏は、イギリスでザ・ビートルズが公式デビューする直前、1963年にはジョン・F・ケネディ大統領が暗殺。

よく言われますがベトナム戦争の泥沼化、キング牧師が奮闘した、黒人公民権法が施行される直前、アメリカが激変する直前だったのが、「アメリカン・グラフィティ」の設定、1962年の夏だったわけです。

結果、映画「アメリカン・グラフィティ」は、1973年度、北米興行収入で、堂々3位。

無名のジョージ・ルーカスが、この後「スター・ウォーズ」を撮れたのは、「アメリカン・グラフィティ」の、大ヒットの実績があったからなんですねー。

ちなみに1973年の1位は、アカデミー賞を受賞した「スティング」。

2位が「エクソシスト」、4位がスティーヴ・マックイーン&ダスティ・ホフマンの「パピヨン」ですから、当時のアメリカにおいて「アメリカン・グラフィティ」が、如何に!大ヒットだったか、若い世代の方でも、映画ファンなら、わかると思います。

日本で「アメリカン・グラフィティ」公開が、1年以上も遅れた理由 

アメリカで、映画「アメリカン・グラフィティ」が大ヒットしてた1973年。日本でもキャロルがデビューアルバム「ルイジアンナ」のB面で、古のR&Rをカヴァーしてました。

が、矢沢永吉氏がいたってことで、キャロルはもの凄く!過大評価されてますが、実際、ファーストアルバム「ルイジアンナ」は、さほど売れませんでした。

基本的には、当時の殆どの!若者は「フォークの子」で、アイドル歌手好き。

ハードロックファン、プログレファンは、今のインディーズぐらいはいましたが、古のR&R、50'sファンなど皆無に等しかった当時の日本。

なので、無名監督で無名俳優ばかりの「アメリカン・グラフィティ」は、リアルタイム日本で、実は公開されてないんです。

アメリカでの大ヒットの噂を聞き、日本の配給会社も重い腰をあげ、アメリカ公開の翌年、1974年も年末の12月になって、やっと 「アメリカン・グラフィティ」は、日本でも公開されたんです。

ところが!日本の1975年の映画興行成績を調べてもらえばわかりますが、「アメリカン・グラフィティ」は、トップ10にも入ってない、、、。

アメリカより1年以上、遅れに遅れて日本で公開された 「アメリカン・グラフィティ」でしたが、実際にロードショー公開された時は、日本でヒットしてないんですねー、、、。

アメリカン・グラフィティ」で人気が復活した、ザ・ビーチ・ボーイズのアルバム「終わりなき夏」

で、お話かわって、1973年「アメリカン・グラフィティ」の大ヒットの翌年、1974年のアメリカ。

商魂逞しいアメリカ音楽業界、この世の中の空気を見逃すわけもなく、「アメリカン・グラフィティ」で「サーフィン・サファリ」「オール・サマー・ロング」が効果的に使われ、人気が復活したザ・ビーチ・ボーイズ!!

キャピタルレコードは、このザ・ビーチ・ボーイズサーフィン・ホットロッド時代のヒット曲を集めた、2枚組ベストアルバム「終わりなき夏」を発表。

なんと!!「終わりなき夏」は、ザ・ビーチ・ボーイズ初の!全米1位を獲得!!

だから、、、

1973~1974年のアメリカは、ニューソウルやニューファンク、シンガーソングライターものと同じぐらい、ものすごく!オールディーズブームが吹き荒れてたんですねー。

一方、遅れに遅れた「アメリカン・グラフィティ」が、日本でもやっと公開された1974年12月の日本。

無名監督で無名俳優ばかりだった「アメリカン・グラフィティ」が、大ヒットする気配はなく、吉田拓郎氏が作った「襟裳岬」を森進一氏が熱唱、「日本レコード大賞」を受賞。

小坂明子さん、海援隊が出場した紅白歌合戦が終わり、1974年は終わりました。1973~1974年の日本では、アメリカと違い何も起きてないです(笑)。

で、、、

明けて1975年、前年末に発売された、ダウンタウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」が大ヒット!やっと!ちょっと!遅ればせながら、世の中の流れがかわってきます。

夏になると日比谷公会堂でのキャロルの4月の解散ライブが、やっとTBS「ぎんざNOW!」の特番で、編集放映。

このテレビ番組によって、今や伝説の火事になった日比谷野音の解散コンサートの映像&音源で、キャロルは解散してからレコードがバカ売れ。

このドキュメンタリーで、キャロルの警護役でテレビ初登場した、バイクチームのクールスも、キャロルなき後のマーケットを狙ったレコード会社によって、バンドとしてデビュー。

そしてロードショー公開では、それほどでもなかった映画「アメリカン・グラフィティ」も、名画座での二本立て抱き合わせ上映が、首都圏を中心に繰り返され、口コミで徐々に人気になりました。

というわけで、日本はアメリカに遅れること2年、1975年になってから、じわじわと古のR&R、オールディーズブームが、特に原宿中心に起きたんですねー。

当時の日本の、女性オールディーズリバイバルは、荒井由実さん

まだ、さして売れてなかったユーミン荒井由実さんの、1975年発売「ルージュの伝言」も、当時はヒットしたわけじゃないですが、そのサウンドはオールディーズを感じさせてくれる、素敵な楽曲でした。

その後、有名になるボウリングシャツは、荒井由実さんが「ルージュの伝言」のプロモーションを、原宿の「キングコング」でやった時、着たのが最初。

そして「キングコング」や、系列の「怪人20面相」等で、この後、店の従業員がリーゼント姿で、ボウリングシャツをユニフォームにしたことで、一気に!ボウリングシャツはブレイク。

こちらも、この後、R&R、オールディーズファンには当たり前になる、ポニーテイルにパラシュートスカートも、当時、アン・ルイスさんが、多分、初めて着た女性だったと記憶しております(リバイバルという意味でね)。

1976年になると、ユーミン荒井由実さんも「あの日に帰りたい」の大ヒットによって、それまで売れなかった旧作まで売れるようになる、一大ユーミンブームが起きます。

このブームで、シングルヒットしなかった「ルージュの伝言」が、今のように、当たり前に知られるようになったわけです。

キングコング」に続いて、山崎眞行氏が運営する系列店のカフェ、そして50'sファッションに特化した店「クリームソーダ」が、原宿に次々オープン。

1976~77年頃になると、日曜の原宿表参道は、革ジャンリーゼントの男と、ポニーテイルにパラシュートスカートの女の子が、流行りのサーファーファッションの男女と共に、溢れかえってきました。

結果、1980年前後になると、この流れが代々木公園入り口前で、ラジカセでツイストを踊るローラーに、繋がったわけです。

が、、、

ボクも1980年前後は、もう大人になってたので(笑)、原宿の教会がラフォーレになる頃までしか、原宿のことは正直わからないので、ローラーは詳しくないです、、、。

1970年代半ばの、まだ今とは風景が全く違った原宿は、熱かったな〜という、お話しは、このへんで。

レーガン大統領襲撃事件の犯人は、13歳のジョディ・フォスターに一目惚れしたジョン・ヒンクリー

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1976年に公開されたマーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」で、売春婦を演じたジョディ・フォスターは↑撮影当時13歳でした。

そしてこのスクリーンの中の13歳のジョディ・フォスターに、一目惚れしてしまった7歳年上のオクラホマの裕福な家庭に育った白人青年、ジョン・ヒンクリー。

映画「タクシードライバー」に、ロバート・デ・ニート演じるトラヴィスが、次期大統領候補を襲撃しに行きますが、モヒカンにサングラス姿がシークレット・サービスに怪しまれ失敗するシーンがあります。

ジョン・ヒンクリーのジョディ・フォスターへの偏執的な愛は日に日に強まり、1981年、歴史上の人物としてジョディ・フォスターと同等になる為に、遂に当時のレーガン大統領を襲撃、、、。

ジョン・ヒンクリーが「タクシードライバー」のトラヴィスを真似たのは、間違いないでしょう。

そんなジョン・ヒンクリーはザ・ビートルズの大ファンで、前年12月ニューヨークの自宅前で射殺されたジョン・レノンの追悼集会に参加したばかりの、ソングライター志望の男でもありました。

三兄弟の末子のジョン・ヒンクリーは、25歳になると石油会社を運営する父親から幾ばくかのお金を渡され、自立することを命じられ家を出されますが、そのまま彼はレーガン襲撃計画を練り出しています。

ジョン・ヒンクリーは元々は秀才だったそうですが、大学に入ってぐらいから精神が病んできたそうで、国内外問わず、成人超えたバカな倅を持つ親も対応は難しいですね。
 

ワシントンD.C.ヒルトン・ホテルでのレーガン演説後、ホテルを出ようとしたところで、待ち構えていたジョン・ヒンクリーは回転式拳銃を続けざまに6発発射。

弾丸は大統領用車両に跳ね返ってレーガン大統領の胸部に命中し、報道担当官のジェイムズ・ブレイディ、警官のトマス・デラハンティ、シークレット・サービスのティモシー・マッカーシーにも当たり負傷しています。

レーガン大統領もフレンディ報道官も一命は取りとめましたが、フレンディは左半身付随の車椅子生活を余儀なくされる、痛ましい襲撃事件でした。

犯人のジョン・ヒンクリーは逃亡しようともせず、その場で身柄を拘束。

が、しかし、当時はまだ米ソ冷戦、東西冷戦真っ只中です。

レーガンは対ソ連に関して厳しい政治を打ち出しており、強いアメリカ復活を旗印にしていた事もあり、ソ連側は新しいアメリカ大統領の言動に神経がピリピリしていた時期。

ソ連アフガニスタン侵攻を理由に、日本も巻き込まれた1980年のモスクワオリンピックボイコットをアメリカがやった、この事件は翌春の出来事ですから、 米ソ共に一時は緊張状態になりました。

当然アメリカは、ソ連KGBのスパイ・工作員絡みの犯行ではないかと邪推し、ソ連側もアメリカは因縁つけてソ連を攻撃すると、銃撃後は米ソ全面核戦争の危険もなかったとは言えない。

というわけで、ジョン・ヒンクリーは世界にとっても極めて物騒な男でしたが、動機は政治でもテロでもなんでもない、ジョディ・フォスター愛、、、。

結局、ジョン・ヒンクリーは、ありがちですが頭がおかしいって事で、責任能力がないと何と!無罪。頭のおかしい男でも、簡単に銃が手に入るアメリカって、どうなんでしょうね〜。

頭がおかしいから責任能力はないとしても、ジョン・ヒンクリーはワシントンD.C.の聖エリザベス病院に強制隔離入院。

そして襲撃事件から18年後の1999年に、ジョン・ヒンクリーは両親の監督下に仮退院を許可され、2000年には監督なしでの仮退院が許可されました。

そんなこんなで襲撃事件から35年後の2016年7月に、ジョン・ヒンクリーは放免。以後母親と同居しているそうですが、2021年現在彼は66歳ですが、ママはお元気なのでしょうかしらね〜。

映画「ビッグ・ウェンズデー」のペギーもサリーも、けっこう年いってた

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ジョン・ミリアス監督の、映画「ビッグ・ウエンズデー」は1978年公開された映画(日本公開は1979年)です。

で、主人公のマット・ジョンソン(ジャン・マイケル・ヴィンセント)の恋人→奥様ペギーを演じたリー・パーセルは、1947年生まれ。

マットのサーファー仲間のジャック(ウィリアム・カット)が、海辺の傍のカフェでナンパしたサリーを演じたパティ・ダーバンヴィルは1951年生まれ。

リー・パーセルは映画撮影中、既に三十路を迎える年で、既に結婚・離婚経験後、二度目の結婚をされていた最中でした(後に離婚)。

なので、彼女はとっても素敵な女性ですが!「若い頃話し」での、おきゃんなギャルは、ちょっと無理があるかな〜、この人けっこう年いってるだろうなーと、当時から観てた方思ったんじゃないかしら?

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だからペギーを演じたリー・パーセルは、おきゃんなギャル役が終ってマットと結婚し、ママになってからの方が、素敵だったと私は当時も今も思っております。

で、皆はなんとかベトナム戦争の徴兵逃れをしようと、あの手この手をやりますが、ジャックは志願して兵隊なるわけで、戦場に向かうジャックとのお別れの会での、笑いながら半泣きしだすペギー。

このリー・パーセルの演技!いつ観ても、グッときちゃいます。

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そして時が経ち、マットがサーフィンをしてる間、砂浜で子供と遊んでるペギーがふと気ずくと、そこには無事に帰還してきた軍服姿のジャックが立っている。

このシーンのペギーの嬉しそうな表情!リー・パーセルの臭くない演技は素晴らしいし、ウィリアム・カットも颯爽としてとてもカッコいい!
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そして、この映画のリー・パーセルの演技で一番好きな、ラストシーンのビッグ・ウェイブに乗りに行くマットを見送る早朝のペギー。

言葉も少ないけれど、この二人の笑顔のやりとりのシーン。本当にいつ観ても大好きです。

だから「ビッグ・ウェンズデー」は、リー・パーセルの顔芸に私はやられちゃった映画かもしれないですね〜。


で、、、

そのリー・パーセルは「ビッグ・ウェンズデー」の4年前、かの!チャールズ・ブロンソン主演映画「マジェスティック」にも出演。

あの!「ゴッド・ファーザー」のソロッツォ役で有名になった、アルフレッド・レッティエリとも競演しており、「ビッグ・ウェンズデー」後もコンスタントに映画、テレビドラマに出演しています。

が、日本で大ヒットした映画がないのが、ちょっと残念。


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で、話しを戻して「ビッグ・ウェンズデー」のもう一人のヒロイン、サリーを演じたパティ・ダーバンヴィル↑も、撮影時は既に結婚・離婚歴のある26~27才。

今更ながら、けっこうサリーも年いってたんだなーと思いまする。

この方、1966年のロバート・デ・ニーロがスポーツ選手に対する偏執狂、ストーカー役を演じた「ファン」にでてましたね。

ただ、マット・ジョンソンを演じたジャン・マイケル・ヴィンセントとリロイを演じたゲイリー・ビジーは共に1944年生まれで、監督のジョン・ミリアス↓と同い年。

撮影時は既に33~34才。

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撮影の為、鍛えた、トレーニングしたとしても↑、三十路過ぎて、しかも!デブが多い白人で!この肉体は凄かったなーと、今更ながら思う次第。

20代から腹が出て来たとか肥ったとか、怠慢な暮らしの結果を嘆いてる場合じゃありませんぜ、日本の若い衆の皆々様(笑)。

ちなみに、ジャックを演じたウィリアム・カットが1951年生まれで、サリー=パティ・ダーバンヴィルと同い年。



ザ・ビートルズ解散の1970年のオリコン年間売り上げチャート30位までに、1曲もザ・ビートルズの曲が入ってない当時の日本(笑)

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1位 黒ネコのタンゴ:皆川おさむ
2位 ドリフのズンドコ節:ザ・ドリフターズ
3位 圭子の夢は夜ひらく:藤圭子
4位 女のブルース:藤圭子
5位 逢わずに愛して:内山田洋とクールファイブ

6位 手紙:由紀さおり
7位 愛は傷つきやすく:ヒデとロザンナ
8位 今日でお別れ:菅原洋一
9位 ヴィーナス:ザ・ショッキング・ブルー
10位 京都の恋・渚ゆう子


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1970年はロック史の中で、ザ・ビートルズ解散というショッキングな出来事があった年でした。

なのに、リアルタイムの日本の年間シングル売り上げチャートトップ10に、全く!ザ・ビートルズの曲は入ってません。

年間トップ30まで広げても、1曲もザ・ビートルズの曲はチャートインしていません。

ザ・ビートルズは同年、日本では「レット・イット・ビー/ユー・ノウ・マイ・ネーム」、「オー!ダーリン/ヒア・カムズ・ザ・サン」、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード/フォー・ユー・ブルー」とシングル3枚も発表されています。

前年の11月には「カム・トゥゲザー/サムシング」がシングル発売されてますが、これら4曲のうち唯の1曲も1970年のオリコン年間チャート、トップ30にインしていません。


ちなみに最高位で「レット・イット・ビー」の32位。

 

まぁ〜コアなザ・ビートルズファンは、アルバムを買っていたでしょうから、アルバムはそこそこ売れていたわけですが、それでも当時の藤圭子さん、森進一氏の大ブレイクに商業的にザ・ビートルズは及ばなかった。

また洋楽アルバムも、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」やトム・ジョーンズの「ライブ・イン・ラスベガス」の方が、ザ・ビートルズのアルバムより当時は売れてました。

ですから、ロック史的にはもの凄く重要な1970年のザ・ビートルズ解散ですが、リアルタイムの多くの日本人にとって、ザ・ビートルズ解散てどーでもいい話だったんです(笑)。

むしろザ・タイガース解散に涙した女の子の方が多かったんじゃないでしょうかね〜。

 

一般的には話題の中心は大阪万博で持ちきりでしたし、聴いてる音楽は藤圭子さん。それが1970年の日本でした。

 



ちなみにザ・ビートルズのアルバムがオリコン年間チャートトップ10に登場したのは解散から2年後の1972年、「レット・イット・ビー」の8位が初めて。

 

でも、やっぱりサイモンとガーファンクル(4位)、カーペンターズ(7位)のベスト盤にランクで負けています。

そして翌1973年、所謂「青盤」「赤盤」=「ザ・ビートルズ1962~1966」が同チャート3位、「ザ・ビートルズ1967~1970」が6位、そして「レット・イット・ビー」が前年に続く7位。

 

と、ザ・ビートルズのアルバムがバカ売れ出すのは、日本の場合、解散から3年も経ってからでした。

ですから、若いコアなザ・ビートルズファンは膨大な資料を眺め、イギリスやアメリカとリアルタイム当時の日本が同じだったとは考えない方が良いです(笑)。

2021年現在、ザ・ビートルズ解散時ティーンエイジャーだった層は70歳から60歳ですが、若いコアなザ・ビートルズファンがびっくりするほど、皆さんザ・ビートルズに疎いですから(笑)。

2021年現在、50代から下の「遅れて来たザ・ビートルズファン」の方が、情報量の差もあっての事でしょうが、圧倒的にあらゆる面でザ・ビートルズに詳しいのを、私は実感しております。

はっきり言いましょう。

1966年のザ・ビートルズ初来日は大盛り上がりだったのは確かですが、女性人気はほぼアイドル的なそれで、後のベイシティ・ローラーズや、同時期人気だったザ・モンキーズと似たようなもの。

男も女の子がキャーキャー言ってるザ・ビートルズより、エレキの上手い!ザ・ヴェンチャーズの方が偉いと思ってましたし、一般的には普通に皆、歌謡曲ばかり聴いていて洋楽なんて好んでなかった。

そのぐらい、繰り返しますが、びっくりするほど、ザ・ビートルズ現役時代に若者だった筈の日本の今や爺さん婆さん、ザ・ビートルズの事も曲も知らない人が殆どです。

勿論、1966年に来日して騒動があった事や、メンバーの名前と顔ぐらいは知ってますし、楽曲もイエスタディとヘイジュードは知ってますが(笑)、知っててもその程度です。

かつて巨匠!渋谷陽一氏が、日本には「ビートルズ世代」なんてないと論説を述べた時、私は拍手喝采でした。

 

「世代」というには、その年齢層の共通了解で、更には他の年齢層が驚嘆するほど、その物事に詳しくなければおかしい筈ですから。

そういう意味で言えば、日本にいるのはグループサウンズブーム世代、和製フォークブーム・女性アイドル歌手ブーム世代、そして1970年代終盤のピンクレディ世代です。

ザ・ビートルズもロックもソウルもファンクも、当時はコアなマニアックなファンの世界で、とてもじゃないですが「世代」なんて一括りにできるような、共通了解できる代物ではなかった。

まぁ〜、このへんはレコード業界の巨匠!故石坂敬一氏や故大瀧詠一氏が述べていた、日本で1950年代リアルタイム当時、チャック・ベリーは流行ってなかった説と同じ。

あまり米英と日本が同じようなロックの歴史を歩んでいたとは、若いコアな古のロックファン、研究家の方は思わない事です。歩んでないですから(笑)。 

それに、そもそもザ・ビートルズをロックバンドだと、当時の若者で思ってる人は殆どいなかった(認識は普通にポップス)。

昨今は爺につき洋の東西を問わず、ヒット曲は何もわかりませんが、その昔の日本人はロックのビートやグルーヴ、そしてR&Rやブルースの7thの和音は心に響かない人が殆ど。

ひたすら短調のせつないメロディが好きで、これ歌謡曲に限らず和製ふぉーくもしかり。

1970年のオリコンシングルチャートを30位まで広げても、洋楽はザ・ショッキング・ブルーの「ヴィーナス」、ジェリー・ウォレスの「男の世界」、ザ・オリジナルキャストの「ミスター・マンデイ」。

 

更にはジミー・オズモンドの「ちっちゃな恋人」、1910フルーツガム・カンパニーの「トレイン」の5曲だけで、繰り返しますがザ・ビートルズは0。1曲も入ってません。

 

それでも、32位の「レット・イット・ビー」は洋楽で6番目に売れた曲には違いないですが。

勿論!日本ではわりとシングルレコードが発売されていましたが、レッド・ツエッペリンなど入るわけもなく、ジェームス・ブラウンなんざ、正に!非行少年しか当時は知らなかった。

だから、繰り返しますが後世の人は当たり前のロックや音楽の歴史を、当時の日本に当てはめて想像しない事です。ネットで調べれば、当時の日本のヒット状況や映画のヒット作って簡単にわかりますから。

米英と日本のそれのズレは、少し調べれば誰でもわかりますので(勿論、日本独自の歌謡芸能カルチャーを否定するわけではありません。米英とは異なるという話です)。

 

ダイアナ・ロスなきザ・シュープリームスが放った、唯一の踊り場ヒット「ストーンド・ラブ」(Stoned Love)

ダイアナ・ロス脱退後でも、シュープリームス名義として日本の踊り場で人気になった、「ストーンド・ラブ」(Stoned Love)。

一般的には日本ではちっともこの曲はヒットしませんでしたが、踊り場人気とはいえシュープリームス最後のヒット曲だったと私は記憶しております(1970年、全米7位)。

1970年代前半の踊り場は、60年代のモータウンサウンドテンプテーションズ、フォートップスと共にシュープリームスの曲も非常に好まれ使われておりました。

そんな中、「ストーンド・ラブ」もダイアナ・ロス在籍時のヒット曲同様、当時のツッパリ坊やズベ公、アイビーに好かれていたナンバーでした。

が、1974~75年頃からのR&B、ニューソウル、ニューファンク、フィリーソウル(フィラデルフィアソウル)から所謂ディスコサウンドへの流れが変わって行きました。

 

 

踊り場からディスコの時代になると、より新しいサウンド&楽曲、シンガー、グループが好まれ、「ストーン・ラブ」を最後にヒット曲がでなくなったシュープリームスは影が薄くなったのは否めません。

他の多くのシンガー、グループがそうであったように、1980年前後の空前のディスコブーム期には「軒を貸して母屋をとられる」。

 

完全にブーム期の「ディスコのコ」達に、シュープリームスは忘れ去られておりました。

映画「ドリームガールズ」の悲劇のモデルになったシュープリームスのオリジナルメンバー、フローレンス・バラードは、映画通り1967年に既に解雇されておりましたが、シュープリームスが忘れ去られた1976年に他界。

日本で当然これがニュースになる事もありませんでしたし、メンバーチェンジを繰り返すシュープリームスの断末魔も、日本で伝わる事も全くなかったです。

最後のオリジナルメンバーのメアリー・ウィルソンの独立によって、シュープリームスが1977年に解散していた事も、殆ど当時は誰も日本人は知らなかったと、私は思ってます(私も知らなかった)。